善光寺
山尾三省
善光寺様
善光寺様
ことしも わたしたちの庭畑に あなたの
不思議の 金木犀の花が さきました
ことしは
こちらは苦しく乱れて
金木犀は咲かず 水も流れぬ秋かと
思っていましたのに
善光寺様
善光寺様
ことしも
この貧しい庭畑に あなたの
不思議の 金木犀が
香りいっぱいに 咲き満ちました
善光寺様
この世界という 善光寺様
◇聖火、善光寺を出発せず!
観世音菩薩の春の縁日である昨日、信州善光寺様が、聖火リレーのスタート地点であることを辞退した。
外部の人間として、その決定に至るまでのプロセスは知りようもないし、最終的な決断の根拠がなんだったのかも分からないが、僕は真に尊い選択であったと思っている。
チベットでの騒乱以降、日本での聖火のスタートが他でもない善光寺様であることについて思いをめぐらすたびに、山尾三省さんの詩『善光寺』が思い起こされた。そして、胸が痛んだ。もし、それが実現してしまえば、何か大切なものが失われてしまうのではないか。今は亡き山尾三省さんなら、どう考えただろう。
僕らにとって、またひとつ、泣いていい場所であり、祈っていい場所である聖地が、失われてしまうのではないか。人間性の善き光である慈悲や愛を求める場所、与えられる場所が、失われてしまうのではないか。
近代化や市場原理の軍勢が、善光寺に、僕らの宗教心に、押し寄せているようなイメージを抱いた。
しかし、善光寺様の善き光は、見事に、これを跳ね返した。
◇善光寺様の立場 もし僕なら・・・。
善光寺様の立場は僕などには想像もできない。規模も大きくその信徒や周辺地域や、経済界などへの影響力も大きい。今までとは違った方針を打ち出せば、それだけで門前の賑わいに変化も出るし、駐車場の配置ひとつでつぶれる店もある。
来年に御開帳を控えた今、国内のみならず、全世界に日本を代表する寺院としての存在をアピールする大きなチャンスとして、この聖火リレーも巡ってきた。長野市の観光収益において、善光寺の存在がその効果として生み出すものは巨大なものだろう。その意味からも、国宝の本堂から聖火が走り出す光景に期待と夢を寄せた人も多かったはずだ。その映像は全世界に放映されるのだから。まして、現在のように中国からの観光客が激増している今、中国人観光客を一挙にひきつけるまたとない機会でもあった。
もし僕が、こうした御開帳のような巨大なプロジェクトの事務局の立場で、巨大な宣伝効果が期待でき、しかも広告費がかからないチャンスがあったら、同じ決断ができただろうか。多少のリスクはあっても、ここは一時的なブームなのだから、オリンピックが終わってしまえば多くの人の記憶からも消えていくだろうし、やはり予定通りスタートすべきではないか。
そんなふうに考えないだろうか。当然考えただろうし、そのような経済効果や利害を真剣に討議することが悪いことでもない。善光寺様にとっては、参拝者を増加させることは常に大きな課題なのであり、そのために観光的な要素も進んで引き受けるし、地域との関係もそんな部分を基本にしているのだから。
◇チベットの風 善光寺様にも吹く
しかし、チベットからの風は、善光寺様にも大きく吹きつけたらしい。
善光寺さまほどのお寺になると、関係する僧侶をはじめとする人間もたくさんいる。その大きな規模の意思を取りまとめ、合意を形成する意思決定機関があるという。
その会議は、善光寺を取り巻く様々な関係、信者団体、地域団体、経済団体、宗派団体、地元門前の商店会など、本当に多くの関係の中で意思を決定するのだから、何事かを判断し決定する根拠もいろいろあるだろう。当然、日中仏教の交流においても、善光寺は少なからずの役割を果たしてきている。
その中での今回の決断は、仏教者としてのチベット人への共感であったという。同じ仏教徒として、とも伝えられている。いずれにしても、巨大で多様な利害の関係性に取り巻かれている善光寺様が、ここに至って、仏教徒として意思を表明なさった意義をとてつもなく大きい。
仏教寺院なのだから当然だというのは簡単なことだが、シンプルなことであっても、決断が楽であるとは限らない。決して楽な決断ではなかったと思うが、仏教者という原点に立ち返った決断は、それが善光寺という四方への大きな影響力を有する寺院の決断と意思であることを考えれば、経済効果などでは推し量れない、お金に換算できない深さと尊さを持ったメッセージが発信されたのだと思う。
◇ちょっとガス抜き
また、善光寺の辞退によって仏教界が一定の意思を示したことで、日頃から日本の仏教界の煮え切らなさに苛立つ庶民のストレスはガス抜きされ、聖火リレーへの我々一般市民の憎悪感情もトーンダウンしたとも言えるだろう。その意味では、社会的な不満やストレスの鬱憤が、「アンチ中国」というはけ口に殺到しかかっていた不穏なムードにも、善光寺様は癒しの冷や水をかけてくださったともいえる。
◇三国伝来と生身の如来
善光寺様は、やはり、その存在がこの世を照らす善き光であって欲しい。
その善き光が、すんでのところで、翳ってしまうところだった。
しかし、善光寺様は、普遍的な仏法が生きていることを示してくださったと思う。
善き光をあらためて照らしてくださったのだと思う。
僕は、このお寺様にはいくつものキーワードがあると思っているが、その中でも重要なのが『三国伝来』と『生身の如来』ではないかと思っている。
三国とは、インド、中国、朝鮮 を経て来たことほ示すという言葉であるが、単に通過してきたことを示すのではなく、それらの国々の多様なる価値観を貫き包含している、より高次のレベルでの普遍性を有しているという意味だと思う。そして「生身」ということは、その普遍的な仏法が、遺物でもなく経典の中にだけあるのでもなく、現実に生きているのだということを表しているのだろう。地域性も時代性も超えていく普遍性が仏法であり、それが生きているお寺。
今回は、まさに普遍的な仏法の善き光が生き生きと光り輝いた。
◇慈悲という善き光
では、その善き光の内実は何なのだろうか。
つまり、普遍的であるというその仏法の内実ということなのだが、それは「カルナー」だと思う。
つまり、慈悲だ。
チベット人に対する中国政府の無慈悲な行為を知った時、善光寺様に、この慈悲が問われたのだと思う。
善光寺様は、経済効果や発展という外面の価値ではなく、人間性の内面的な価値である慈悲を選択した。
僕は、そこにもっとも意義を感じるし、今回の一連の経過とその結果をそう受けとめたい。そして、こうした経済効果や発展などではなく、慈悲を選び取る流れを、世界の潮流にしたい。少なくとも、善光寺様の一歩は、善光寺様の信者である我々にとっては大きな意味を持つ。
その意味で、チベットの「問題」は、無慈悲な開発や発展を進め、無慈悲な社会を作り出している人間社会全体に、慈悲の問題を問いかけているのだと思う。
このまま善光寺から聖火が走り出せば、慈悲の善き光は、日本から消えてしまうところだったかもしれない。
ダライ・ラマ14世は、近代化された社会生活の中で生きる私たちに、慈悲の大切さを訴え続けている。
人間社会の根幹は、慈悲なのだと。それを外した社会作りは、必ず崩壊すると。
善光寺様から聖火は走り出さなかった。
そのかわり、慈悲の善き光が放たれて、多くの人の胸に灯されたと思う。その灯火は、チベットの風を受けて広がっていくだろう。
その善き光の広がりは、チベット人たちには大きな励ましになるに違いない。
◇僕の夢
僕は夢見ている。
いつか、ダライ・ラマ14世が善光寺様にお参りにいらっしゃることを。
そして、善光寺一山の和尚様たちを中心にして、日本中のお坊さんや多くの信者、もちろん他宗教の神父さんや信徒さんとともに、あの国宝の大本堂でチベットの解放はもちろん、非暴力と対話に基づく世界平和を祈りたいと。
ダライ・ラマ14世が『お数珠頂戴』をなさってくれたら、どんなに素敵だろうか。
来年の御開帳なんか、どうかなあ。
もちろん、来ていただくことだけではなく、チベットの平和的解決こそが、真の夢として描かれ実現されていくべきことである。
僕の夢はともかくとして、善光寺様には、宗教的なリーダーとして、今まで以上に慈悲や愛を守り、与え続けて欲しい。
南無善光寺如来
南無阿弥陀仏
合掌
南無善光寺
南無善光寺
南無善光寺
宗教とか
民族とか
政治とか
言う前に
人とか
命とか
もっと根源的なことに
立ち返る
しっかりと踏み締めるべき
大地の位置を
間違えてはいけない
そんな風に思います
幽黙さま
有り難うございます。
本当にそうですね。チベット消滅の危機が緊急課題であることはもちろんですが、そこで暴力を振るっている兵士たちのほうこそ人間が壊れているのだと思われてなりません。いったい、どうなってしまうのかと思います。彼らこそが破滅の危機にあるのだと思います。「大地」から、完全に切れてしまっています。本当に、悲惨です。
追記 しかし、このように善光寺が辞退してもなおコースを変えてまで実施する側の根拠は、一体全体何なのだろうか。辞退する理由はいろいろ挙げられるが、あくまでも実施する理由は、何なのだろうか。長野市が平和都市(部落開放都市宣言や平和都市宣言を採択している)であるなら、長野市ではもはや開催できませんと言うことになるのが「筋」と思えるのだが。
それから、本日の信濃毎日新聞には「聖火リレーが混乱するのはチベット人にとっても逆効果ではないか」という意見が、「同じ思いの人が多いのではないか」との文脈で書かれていた。
が、五輪やスポーツが政治的なものと切り離されたほうが善いに決まっていることなど、チベット人だって百も承知しているのだ。ところが、チベット人たちには、自分たちの窮状を訴える「場」がこの沿道しかないのだし、少なくとも、聖火リレーが何の混乱もなく世界中で歓迎されて北京に戻ることが、チベット人にとって「効果」があるとはとても考えられない。これだけの影響力のある発言箇所なら、チベット人にとっての「効果的」な方法も提案して欲しいものである。
リレースタート地点辞退という今回の善光寺さんの態度表明は、様々な社会的立場にある長野のシンボルとしては、苦渋の決断であったことはよく理解できます。
しかし、それでもなお、もっとチベット問題に対する明確な意思表示をしていただきたかった。チベット問題を指して「そういうこと・・・」という会見では、「やっぱり観光寺だなあ」と揶揄されてもいたしかたないのではないでしょうか。
民間での起源と歴史を刻み、特定の宗派をもたず、庶民信仰のメッカとして発展を続けてきたお立場もあり、拝観料をとる京都の観光寺とも依って立つところが異なるのでしょうが、残念です。
南無阿弥陀仏 合掌
雨ニモマケズ様
本当に、ご山内の合意の形成は、ご苦労が多いでしょうね。理念や理想が判断基準になるときはなお難しい気がします。利益の場合は、比較的に合意は形成しやすいのですが、理想はもっともだが不利益も予測できる場合には、さらに苦しいでしょうね。今後は、仏教思想を根拠に、善光寺信仰や阿弥陀信仰の立場からの宗教的なオピニオンリーダーとしての責任がさらに期待されますね。
僕は、記者会見をテレビなどで見ていないのですが、善光寺様に限らない仏教界の問題として、時事的な事柄や社会情勢に対して仏教者としての明確な言語を語れる僧侶は少ないと思います。
今回の問題の大きさ、複雑さ、その本質的な時代性などからしても、僕ら仏教者にとっては、現代仏教の様々な限界やその限界の理由を教えてくれる素材ともなっています。
お釈迦さまが示されたように、社会の布施によって生きつつも、出家という立場を守り社会からの距離を保つことが、宗教性、中道、正しい判断を保持する上でいかに大切か、考えさせられています。
コースを変えてまで実施する側の根拠は、資本主義に則った契約の概念であり、人としての正義や道徳は介在しておりませんね。
私たちが、毀誉褒貶に左右されない、やせ我慢してでも上位におくべき理念・心の置所は、現状の「聖火」リレーには含有されていないのではないでしょうか。
いずれにせよ、ここまでの日本仏教界の動向からは、この期に及んでの保身と、人間としての弱さを感じてしまいました。
また、日本全体を覆う歯切れの悪さは、ちょっとしした過失で一方に責任を問うという信頼関係の欠如によってもたらされているという気がします。
これらの醜さが、自身のこととして身につまされます。
高岳様
!「毀誉褒貶に左右されない、やせ我慢してでも上位におくべき理念・心」、そうなんですよね、そういうことはとても大切なんです。意地張って、美意識のために死んでしまうこともあるのでしょうが、今の流れや局面が、仏教者としてのあり方が問われているという感働きが欲しいです。
四座講式の中ほどに、インドの僧侶「僧会」が仏法宣布のために呉の国に入ると、名高い英雄である孫権が「お前が祈って舎利の霊験があれば塔を建てて仏法を信じてやるが、それが虚妄なら罰を加える」と嘲る場面があります。
伴の者とともに何日も祈る僧会の前になかなか霊験は現れず、孫権は馬鹿にしいよいよ刑罰を加えようとします。
その時に僧会は弟子たちに決然と語るのです。
「法の興廃はここにあり。このたび、感なくば死ぬ覚悟である」と。そして涙を流し身を震わせて祈念すると五色の光が輝いて、、、。
こんな、「法の興廃ここにあり!」という感働きが、僕らを包む日本の仏教会には衰弱しているのだと思います。理想や美意識や神に殉じては無意味だという意見はもっともですし、僕だって殉じることに美を求めているわけではありませんが、資本主義や金の傲慢さを前に「正義や道徳の興廃ここにあり」という人としての感働きも、僕らも磨きたいですね。
今回の善光寺さんの判断は、「日本の仏教からの活力、エネルギー」として感じられました。
かけがえのない生命の尊さを説いている仏教を、もう一度見直させてくれるような、出来事と思いました。
善光寺本堂が落書きされたとのこと(善光寺如来さまは嘆いておられるだろうなぁ)。こんな陰湿・姑息な仕業を、今回各地で起こっている暴力と結びつけるのは無理があるかもしれないが、いずれにしても実力行使は失望なり絶望を生むだけで、何の解決にもなりはしない。
ところで、チベット問題をめぐる対中批判や聖火リレーへの妨害が引き金となって欧米に対する中国民衆の抗議行動が起きているようだが、何かこれはサッカーのワールドカップで自国を応援してのデモのように見えて仕方がない。要するに、スポーツで湧き上がる愛国心の世界であって、連中は人命とか人権というものをおよそ認識してないだろうから。
或遭王難苦
臨刑欲寿終
念彼観音力
刀尋段段壊
とほだー様
コメント、有り難うございます。
松原泰道老師の講話を聞いたとき、人は呼ばれて人になる、という言葉がありました。善光寺様を始め、日本の仏教界は、今回の一連の出来事の渦中にある現在、チベットから、同じ仏教者からの必死の呼び声に気がつきつつあると思います。ミャンマーからの呼び声もありますが、とうとう、何かがどこかに届き始めたのかもしれません。まだ、死んでないぞ、という本格的な蘇生につながっていくと良いのですが。
雨ニモマケズ様
あの落書きをどのように消すのか、善光寺と文部科学省などは検討と作業を進めると思いますが、いっそそのままにしたらどうでしょうか。聖火に関する善光寺の対応への反発にしても、花見客にしても、たんなるいたずらにしても、とにかく人間のなかの煩悩性の表れとしてこのまま刻印し、後世に残す。そうすれば、参拝者のすべてがそれを見ることになり、そのたびに、我々はその稚拙で愚かしい行いを「我々凡夫」の行いとして直視し、懺悔を喚起する。それは、広島の原爆ドームのような『負の遺産』となるやもしれません。
現在、チベット民族への対応の遅れから、ややもすると自国民の苛立ちが党本部や政府に矛先を変えかねないのではないですかね。国内格差や、公害など、中国国内にも中央執行部や党に対する鬱憤や疑問はたまりにたまっているでしょうから、フランスをはじめとする欧米に国内のストレスを向けさせようとしている気がします。また、そのような流れの中で求心性を失っている国内世論や意識を、チベット人やダライラマやフランスを「バーチャルな外敵」と仕立てて利用しているのでしょう。危険極まりないですね。