観音めぐりの始まりにはこんなお話しが伝えられています。昔々、奈良時代のこと、大和の長谷寺で修行していた徳道というお坊さんが、厳しい修行の末に病となって死んでしまいました。死んでしまった徳道さんが気がつくと、目の前には閻魔大王がいらっしゃいます。大王は徳道さんに言いました。
「地獄の世界は今や定員一杯で罪人で溢れておる。これは娑婆に仏法が広まっていないからじゃ。それなのにお主のような立派な僧侶が死んではならぬ。蘇って法を広めよ。ついては娑婆の衆生が仏法と結縁するための三十三観音の宝印を与えよう。お主 はこれを娑婆に伝え、観音めぐりの功徳によって衆生を導くのじゃ。この宝印を授かってきたものは地獄には落とすまいぞ」
蘇った徳道のもとには確かに閻魔大王様から授かった三十三個の宝印がありました。
そこで徳道は人々に滅罪生善、現世安穏、極楽往生のための観音めぐりの功徳を説き、宝印を西国の観音の霊地に納めようとしました。しかし、この時、人々は徳道の話を信 じようとはしませんでした。そこで徳道は三十三の宝印を石の唐櫃に納めて、摂津国の中山寺の土中深くに封じてしまったのでした。
月日は流れ平安時代、純粋無垢なお心を持つ花山天皇という帝がおられました。しかし、この帝は欲望渦巻く政争に巻き込まれ、だまされて帝の位を追われ出家させられてしまいます。悲劇は続き、愛してやまなかった恋人も亡くし、魂に深い傷を負ってしまったのでした。
出家して法皇となった花山法皇は、熊野の霊地に千日間こもって修行をします。すると熊野の神さまが現れて、かつて徳道上人が開こうとして果たせなかった観音巡礼の復興を花山法皇に告げたのです。そこで法皇は一大発心をして、当代の高僧にしたがって失われた観音の宝印を探し求め、とうとう中山寺の土中より徳道上人が封じた三十三の宝印を掘り出しました。
270年ぶりに世に現れた宝印を携え、法皇は徳道上人が果たそうとして果たせなかった西国観音の霊場めぐりの道を興したのです。法皇は、観音の道を復興することで、自らの傷ついた魂を癒し、魂の再生を果たしました。かつて悲劇の帝王と呼ばれたお方が、この時から「尊き聖の帝」と呼ばれ人々の尊崇を集めました。こうして出来上がったのが、世に言う「西国三十三観音」の巡礼の道なのであります。
西国三十三観音霊場
この西国観音霊場は中世から江戸時代にかけて大変な信仰を集め「ひとたびこれに詣でずば生涯の恥なり」とまで言われた庶民の憧れの聖地となりました。熊野に始まり、奈良や京都といった古都をめぐり、大坂や播磨、舞鶴、竹生島などの風光明媚な名所も多いことから、物見遊山をかねた一大巡礼道ともなり、今日でも、京都の清水寺を始め、奈良の長谷観音、熊野の青岸渡寺、播州書写山など巨刹を中心に、多くの巡礼者が魂の再生と浄化を祈り、また滅罪と生善、現世の来世の安らぎを願って歩み続けているのです。
この西国の観音霊場に対して、関東では観音信仰に篤かった源頼朝の影響もあり、西国に倣った「坂東三十三観音」が定められ、関東一円に広がる大きな巡礼の道が形成されました。今日も、鎌倉の長谷寺や浅草寺、日光の中禅寺や伊香保の水沢観音など、信仰に支えられる寺々が多く、多くの人々がめぐっています。
坂東三十三観音
また埼玉県の秩父には「秩父三十四観音」があり、西国と坂東と合わせて百観音になることから多くの巡礼者の信仰を集めています。その寺々の歴史も古く、より庶民的で温かいムードにひかれ、年々巡礼する人が跡をたちません。
秩父三十四観音
上記の百観音とは別に、日本各地に西国の観音霊場を模して定められた三十三観音があります。西国や坂東まで行けないけれども、故郷の観音めぐりをして、観音さまとの縁を結びその加護を祈った祖先の祈りが息づいています。
南無大慈大悲観世音菩薩