来年は善光寺様の御開帳です。
しかし、どうして本尊を隠してしまうのでしょう。考えてみると、不思議です。仏教は「偶像」を大切にしているわけですが、これが秘仏というあり方になってくると、簡単に偶像崇拝とも言い切れなくなる。
僕は以前、本尊の秘仏化は、日本人が仏教を内面化した鎌倉時代じゃないかと考えたことがある。
日本に仏教が渡来して600年程を要して、日本人は「仏像」を見なくても、仏の姿を思い浮かべることが出来るようになった。長い、言語的、ビジュアル的な仏教との出会いの時間を経て、日本人は仏像がその姿によって伝えている思想を理解しまた感じ取ることが出来るようになったばかりか、人々や社会はひろくそれらのイメージや精神を共同化した。それが、鎌倉時代だったのではないか、と思っている。
鎌倉新仏教と称される運動が可能になったのは、そのような仏教思想の内面化や社会的な共同化が前提になっているのではないだろうか。奈良仏教や真言や天台という先行の仏教宗派の「堕落」が、鎌倉時代の仏教運動を生み出したということも、鎌倉祖師たちの言動から推して知られることではあるが、彼ら鎌倉祖師たちの眼差しから「堕落」と見えたのは、僧侶たちの生活ぶりとかではなく、これほどに仏法の内面化(生活化)を進めた日本人にとって、すでに旧来のスタイルに「着心地」の悪さがあったからではないか。
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自覚的、言語的、ビジュアル的だった仏教は、より生活の細部に溶け入り、暮らしの振る舞いに混じり、無自覚化、非言語化、不可視化したものへと沈潜して、ほとんど意識せずとも人々はそれを生きるほどになっていたのではないか。
日本人は、いまでもことさらな表現を厭う。
奥ゆかしきあり方を求める。
ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる
人のおとせぬあかつきに ほのかに夢にみえたまふ
こういう「感触」を伴うようなところまで仏を感じている人たちにとって、金箔ピカピカの仏像すでにゲップものであろう。
長谷観音は「人肌観音」とも称されるが、仏に温もりさえ求める人々は、それがどれほど美しく精巧な表現であれ、あからさまに見えて「モノ」を感じさせる像から温もりを感じ取れなかったのではないか。
そんなとき、独りの天才がいて、「扉」を閉ざした。
そうして、閉ざされた扉の奥に秘せられた仏を思って拝む時、仏は体温を持ち、生身にさえなり、語りかける。
扉が閉まっているほうが、むしろ人々は仏を生々しく感じるのだ。
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文化人類学者の上田紀行さんが町田宗鳳さんとの対談の中で、宗教にはイマジネーションの力が必要であると述べる中で、「性的なイマジネーションとは、言い換えれば、この世の中には何か隠されているものがあって、その奥に凄いものがありそうだという感覚です。隠されているけれど、その向こう側にとてつもなく重要で私の生命を光り輝かすような何かがある。そういうイマジネーションを我々が感得して行くとき、性的な力が非常に大きく働いていると思います。だから、イマジネーションの核のところで聖と性は関係しているのです」と語っている(『「生きる力」としての仏教』-PHP新書-)。
「秘するが花」という究極の真言があるが、まさに仏は秘された時、私たちの生命を輝かせる何ものかとして俄然その存在が「働きかけ」として私たちのイマジネーションに迫ってくる。
仏像は、「確かにその扉の向こうにこにある」という時、より美しく、より神々しく、あるべき姿で私たちの前にたち現れるのではないか。
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しかし僕は、その一方で、今は改めて仏像はその姿を人間の前にアラレモナク曝すべきなのではないか、とも思う。
社会の文化的深層に沈んでしまった仏のイメージに『活』を入れるには、秘仏は扉を取っ払って、ズイズイと人々の前にその姿を示すべきなのではないだろうか。
仏教は、常にその「現代性」が真骨頂である。
渡来以降、無数の先徳の弛まぬ言語的・ビジュアル的そして習俗化布教によって、日本人に無意識化されてとことん生活の細部へと溶解していった仏法が、西洋的なフィルターによって現代生活から濾過され分離されてしまった今日、今ふたたび、意識される存在としてその姿を示すなら、そこに現代人の苦悩に応える表現が見出されるのではないだろうか。この現代の「問い」に答える姿が、そこに現われると思う。
その意味では、秘仏を開帳することもさることながら、むしろ「造仏」し、どしどし仏像を作るべきかもしれない。
これでもかというほどに、今日の我々の願いを受け止めて体現する仏を出現させたい。
秘仏というスタイルを保持するなら、秘することによっていっそうその仏の姿を喚起するような何かがなければならないと思う。「前立ち」というのもひとつの方法なのであろう。
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善光寺の御開帳がやってくる。
7年に一度、まるで6年の修行を終えたブッダが覚醒するかのように扉が開く。
しかし、その開帳もあくまでも前立ち本尊の開帳である。
「さらに奥」が想定される。
けっして公開されないが、そこにはそれがある、そこにその方がいる、というイメージ。
善光寺の善き光が、秘せられた扉の奥から漏れこぼれる。
現在のところ
絶対秘仏として存在しているのは
善光寺さんと
東大寺二月堂くらいでしょうか?
その他の仏像は
秘仏とはされながらも
なんらかの形でその扉が開けられる
機会があるような気がします
絶対秘仏についてみると
善光寺と東大寺二月堂については
まさに秘仏であることが
望まれる仏のような気がします
あるいは本当にないかもしれない
もしかしたら
石ころがおいてあるだけかもしれない
でもそこには間違いなく
みほとけおわします
という気がただよっているように思われます
あまり意味もなく秘仏化されても
困るような気がします
仏のお姿というのもまた
ひとつの教えという情報を持っているので
そのお姿を示してこそ情報が伝わる
ということが多いと思われるのですが…
自分が真に仏教を信奉しているのか、自信を持てなくなるときのひとつの場面が、仏像に対する思いの揺らぎです。
お坊さんによる魂入れという儀式があり、それを経ると単なる物体が仏になる・・・。昔は何か薄っぺらなものを感じたものです。
国道を車で走っていると石材屋さんがあり、多くのサンプルとして石の彫刻が展示されており、中には観音様があったりする。あれは、単なる物体なのか・・・。
でも、うちのお仏壇には中央に大日如来が、左右には不動明王と弘法大師が鎮座しており、毎日感謝の祈りを捧げている。
そして、タリバンがバーミヤンの石仏を破壊したときには、何とも言えない憤りを覚えた。
やはり自分は、偶像崇拝を否定するイスラム教のような宗教は合わないかもしれない。
幽黙さま
善光寺というお寺は、ひとつの宗教的な権威ですね。
しかも『官』の極にある東大寺とは反対の『民』の極にあり、善光寺如来のお告げというようなものは、シラスケ物語にしても松本の牛伏寺さんの縁起物語にしても、ある寺の宗教的な力を保証するものとして存在しています。
そのような圧倒的な宗教的な権威をどのような段階で獲得したのか不思議であり謎でもあるのですが、そんなパワーのある寺の本尊というのは、やはり「絶対秘仏」が相応しいですね。
ところで、二月堂本尊のお告げ、というようなものはかつてあったのでしょうか。
ちょっと気になりますね。
雨ニモマケズ様
有り難うございます。
私も「お魂入れ」という行いは何なのだろうかと思うことがあります。
それによって「モノ」と私たちとの関係性が俄かにそれ以前とは違ったものになるのですね。
よくよく考えてみると、そこには魂を『入れる』というより、そもそもそこに深く流れている魂に『気づく』というようなことなのではないか、と思うこともあります。
「お魂抜き」というのもあって、これはまた深い絆となって結ばれていた関係性を『ほどく』ようなものでしょうか。
タリバンについては、タリバンの総意として大仏を破壊したのではないという認識もあるようですね。私も衝撃を受けましたが、アフガニスタンの人々の中にも、イスラム教徒でありながら必死にバーミヤンの保存に尽くしている人もあるわけですね。
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秘すれば花 絶対秘仏
即物的になるほど 憧れは強まるような気がします。
この容の 縁起生起は知らねども 包まれるよな祈りの群れよ
どれも人のなす業ですが、どんな宗団(集団)にも、ハグレ雲や雷雲はあるんですね。
高岳様
雷雲を憎んで雲のすべてを憎むわけにも行かず、そうやって寛容な精神でいられるのは、日本にいるからかもしれません。またそうは言っても、雷雲が立ち込めれば不安です。
昨日も、札所めぐりの参加者から質問がありました。
伝統仏教の大きな宗派に属する寺院を菩提寺として、すこしずつ勉強しはじめたら、その寺のご住職は「神さまを拝んではならん」と仰る。でも、その人は、地域の氏子総代にもなっていて、土地の神さまも大切にしたいのですね。
真剣に悩んでいるようでしたが、真面目そうな方だけに、住職の前だけ適当に合わせるようなこともできず、さりとて神社に手を合わせるなという教えも心から受け入れられず、弱っているようでした。
一神、一仏に対しての信仰心は、「折り合い」というのが難しいものです。
例えば東大寺という
日本でも古い部類に属するお寺
その二月堂のお水取りでは
神名帳の読み上げを行ないます
十一面悔過法要なんだけれど
神の祝福を賜りたいと願う
堂内で法要を執り行う練行衆も
堂入りの前には二月堂周辺にある
鎮守社であるところの
興成神社・飯道神社・遠敷神社に
参拝して柏手を打つ
その光景は美しいものだと思いますが…
幽黙さま
そうかあ、二月堂という存在がありましたね。
東大寺を官の極とうっかり述べましたが、考えてみると、必ずしも「純粋官製」と言い切れない奥行きがありますね。
東大寺の宗教性を保証し支えているのは二月堂の奥にあるようでさえありますね。
逆に、民の極といってはみたものの、善光寺大本願のお上人様がいつのころからか宮家からの御出家になったり「定額山」という山号を定めたり、官との接近の志向性はありますね。官の方からも、民の極へと近づきたいのかもしれませんが。
十一面悔過は、かつて長谷寺でも遂行されていたはずだと思うのですが、、。
官の極としての東大寺は
あの大仏殿だけのような気がしなくもないですね
南大門の仁王の裏側にある石造狛犬は
中国の石工の陳和卿(ちん・なけい)の手になるもので
四月堂(三昧堂)の千手観音の異様な太さの腕は
どちらかというとインド仏教の名残を大きく
残しているような造形ですし
三月堂(法華堂)の諸仏の造形も
純国産というよりは中国や韓国の色彩を
色濃く反映しているように思われますし
二月堂(観音堂)のお水取りの法要を始めた
実忠和尚はインド渡来僧とも朝鮮系渡来僧とも
言われていてあの儀式そのものが純日本の
仏教法要ではないというのも印象的です
それなのに日本の神々との融和のようなものが
そこに秘められていて
まあそれこそが国家プロジェクトを司る
官の東大寺としての務めだったのかもしれませんが…
幽黙さま
>日本の神々との融和のようなものが
そこに秘められていて
まあそれこそが国家プロジェクトを司る
官の東大寺としての務めだったのかもしれませんが…
確かにそうですね。
東大寺を象徴とする人々の思いは、我々が漠然と思い描く「官」とは違う、多様で壮大な世界観へと通じていたのでしょうね。
何しろ華厳ですもの。
実忠和尚こそは、何ごとか凡僧の想像を遥かに超えた仕掛けを日本仏教の礎にセットしていったように思えます。
国家仏教というものが、当時のアジア全体に広がっていたのだと思われますけれども、後世の人が教科書的に思い込んでいる体制的とか貴族的なものではなく、本気で仏の教えによってやってみようと思っていたのでしょうね。