住職日記

白助物語(長谷観音開基伝説を読む) シラとハセ

生まれ清まった者

 

白助=シラスケ

 

 最後に白助の名前と長谷という言葉について触れましょう。

 まずは白助という名前から考えてみたいと思いますが、シラとスケを分けて考えてみます。先に「助=スケ」ですが、この言葉は日本に古くからある言葉で「男」を指すようです。赤胴鈴之スケ、といったり、芥川龍之スケ、というように、男であることを示す言葉です。また奈良時代の官庁の役職である四等官では長官に次ぐ時間のことを「輔・介」等と書いてスケと読みますが、ここにはサポートするもの、手助けするものという意味合いがあるでしょう。

 

 筆者が注目し問題としたいのは「白=シラ」です。日本の民俗学の最大のテーマであり最大の謎とも言われる「シラ」が、長谷寺を開基した男の名前に冠されているのです。

 

 白助物語の時代は、その記述どおりの時代まで遡るとすると、今から一四〇〇年ほど昔に遡ることになります。この時代は、これまでに検討してきたように、仏教の伝来からそれほど時代が下っていない頃と考えられます。

この当時の日本の文化というのは、現代の私たちが考えているよりはるかに国際的な交流が盛んだったようです。なぜなら、日本という国は、といっても当時はまだ統一国家ではないし「国家」という意識さえなかったと考えられますが、列島というように海に浮かぶ島々の国であり、そもそも海洋国家というのは本質的に外部からの情報が絶え間なく新入してくるところなのです。したがって今日言われるような閉鎖的な意味での「島国根性」というものはなく、むしろ、大陸や南方、あるいは北方からの文化がどんどん混入し混在していたことが想像できます。今日においても、カタカナという表記を駆使して、私たちは外国の文化を貪欲に日常の生活に持ち込んで消化しようとしています(なかなかできませんが・・・)。

 

 そのような空間であった日本列島には、南からも北からも含めた大陸からの文化の痕跡と思われる古い遺蹟や地籍の名前があります。人間が入り、移り住むとともに文化や習俗や宗教も一緒に入ってきます。その多くが日本化していくわけですが、中には朝鮮やそれ以外の地域の言葉が色濃く残響する言葉として土着化します。私たちは、そのような時代の背景を念頭において、白助の名前を考えていく必要があると思います。

 

さて、北陸の霊場に白山という霊山があります。あの山は室町期までは「シラヤマ」といわれていたそうです。この「シラ」は古代の朝鮮語であるとも、語源的にはさらに遠くさらに広くユーラシア全体に及ぶ言葉ではないかと考えられていますが、その意味するところは多くの宗教民俗学の立場から、「生まれ清まる」とか再生を意味するものであったといわれます。先のシラヤマは「そこに参拝すれば生まれ変わることが出来る山」ということを意味しているということになります。

 

 この説を白助という名にも当てはめて考えれば、シラスケとは「生まれ清まった男」とか「再生した男」「復活した男」ということになります。あるいは次官という意味に立てば、「生まれ清まりを手助けするもの」となりましょうか。

 

 白助伝説の前半部分は、白助の旅と修行が主旋律ですが、物語全体を通じて見えてくるこの男のイメージは、やはり「生まれ清まった者」というべきでしょう。

 

 当時の旅を想像してみてください。住み慣れた郷里を離れ、遠方のまったく未知の土地へ旅をするということは、命懸けだったはずです。つい百年前までの巡礼でさえ、巡礼者の白装束には、当人がいつどこで死んでもその死んだ土地の習慣に則って適当に埋葬してくれれば良い、という意味のことを必ず書き付け、その費用分だけの金銭は路銀とは別に用意していたものでした。あの巡礼者の杖(金剛杖)は、そのまま五輪塔の形をしており、それは言うまでもなく卒塔婆であり、死んでしまった際の墓標になるものなのです。

 

 そのような旅に出るということは、いわば限りなく死に接近するということなのです。郷里では、その人はもう死んだものと諦めて見送ったでしょうし、シラスケにいたっては旅に出たまま三年以上も帰ってこなかったのです。そのような者が、フラリと三年ぶりに帰ってきたときの郷里の人の驚きはどれほどのものがあったでしょう。

 

 しかも彼は、行く前と帰って来てからでは、何かが大きく変わってしまって(実存的転換)いて、女と子供まで連れてきた。そしてその後の彼の活躍は目覚ましく、貧民の孤児に過ぎなかったものが、たちまちのうちに土地の名士、代官にまで登りつめていったのです。人々は目を見張ったに違いありません。

 シラスケは自分の行った場所や彼の地での出来事などを語って聞かせたでしょう。その長谷という土地のただならぬ雰囲気や体験を、繰り返し語ったことでしょう。それは今で言えば、宇宙飛行士の体験を聞くようなものであったと思われます。

 

 おそらくシラスケという名は、彼の元々の名ではなく、土地の者たちが彼という存在を語り継ぐにあたって名付けたものでしょう。あのはるか遠くのハセというところへ行って生まれ清まって来た人、ということを指し示すのに、「シラ」という言葉がいちばん適切だったのではないでしょうか。今日でも、例えばジャイアンツの長島監督の現役時代を一言で振り返ろうとするとき「お祭り男」といって語り合います。長島茂雄という希有のプレーヤーの能力や存在感の本質を一言で示す最適な言葉なのです。したがって「シラスケ」というのは、この物語の主人公であった何者かの人生や体験の本質を一言で語り示す言葉だったのではないでしょうか。

 

 そしてある時期まで、シラスケといえば、どのような体験をした人間なのかを、聞いた人々が了解しあえる言語文化状況があったのだと思われます。時代が下がって、シラスケといっても単なる人の名前としか受け取れなくなってからも、この名前の響きの中には、私たちの文化の基層に秘められている古代の香り、大陸からの文化の香りのようなものが漂っており、シラスケと言ったり聞いたりする者の心に、何か遠く懐かしい気分をかすかに感じさせるのだと思われます。

 

 また、この「シラ」には、皇室や高貴な血筋に生を受けながら身体的な事情などによって地方に遺棄されてしまった人間を指すという説もあるそうです。つまりその子供は、親の期待を裏切る資質で生まれたということであり、白助物語の最初にある「不忠のこと」という言葉を暗示させ説得力があります。しかしその場合も、そうした不遇の境遇から立直っていくうえでは「生まれ清まった」という意味が生きてきます。ほかにも「シラ」は帰化人を示すという説もあり、また白という色が私たちに喚起するイメージについても今後検討していかなくてはならないと思われます。いずれにしても興味はつきません。

 

 

長谷=初瀬=泊瀬

 

 次にハセという地名です。この言葉の検討が、ある意味では『白助物語』の謎の解明のすべてだとも言えるくらい、重要なテーマになってきます。そしてこの言葉の意味を考えることが、先に述べた白助の人生や体験の本質である「生まれ清まった者」ということの理解を深めることになると思われます。

 

 このハセという言葉は、古代の日本語であると思われますが、あるいはやはり朝鮮語であるのかも知れません。ハセは、ハツセとも、オハツセともいい「小泊瀬」とか「小初瀬」と表記されています。

 

 まず第一にこの「オハツセ」という言葉には、かつて墓所、「死体捨て場」という意味があったといわれています。したがって古代の人がハセと名の着く場所にいくことは、死者の世界に趣くことを意味し、宗教的な行為であると同時に、日常生活では忌み嫌われたことであったと思われます。日本各地に長谷という地名は残っていますが、それらは多くは、古代人の死と深く関わっていた土地であるらしいのです。

 

 と同時に、私たちは、かつて古代人が死というものを、つぎなる生への転機であると考えていたことを想起しなくてはなりません。死んだ人間の魂は、やがて然るべき時がくれば新しい生を受けて生まれ変わる。そしてこのハセには、「死体捨て場」という死をイメージするのと同時に、再生をイメージする土地であったことが知られているのです。

 

 そのために私たちは大和の長谷に伝わる徳道上人の伝説を思い起す必要があります。この上人は大和長谷寺を開山したというばかりでなく、有名な西国三十三観音霊場を開創した人物として知られていますが、この観音霊場を開くにあたって、次のような伝説が伝えられているのです。

 

 ハセの山で修行中だった上人はある時、病を得て命を失いました。そこであの世に向かっていくと、閻魔大王が上人を呼び止めて、お前がこちらにやって来るのはまだ早い、お前はまだまだ娑婆にいて苦しみに喘いでいる衆生を観音の教えによって導く勤めを果たさなくてはならない、ただちに娑婆に戻って観音霊場を広く世間に知らしめよ。閻魔大王にそういわれたばかりか、大王から三十三個の観音さまの宝印(判子)を授かった上人は甦り、その宝印を各地の観音霊場に置き、三十三札所を創ったというのです。ここでなんといっても注目すべきは、上人がハセという土地で死んで甦ったということでしょう。つまり、ハセという土地は「死体捨て場」すなわちあの世への入り口を意味するばかりでなく、そこから死んだものが甦ってくる再生の場であることが、他でもないこの霊地に寺を建立した徳道上人の伝説によっても強く打ち出されているのです。ハセとは、つまり「死と再生」がともに果たされる空間なのです。

 

 このことはハセを表記している漢字が見事に表しています。まずハセが泊瀬と「泊」の時で表記されるとき、水の流れはそこで泊まります。しかし初瀬といい「初」の時で表記されるとき、水の流れは、そこから初まります。水の流れによってイメージされるのは言うまでもなく生命であり、すなわちハセとは生命というものが泊まりまた初まる場所、死と再生の場を示しているのです。始まりと終わりがそこにある場。そのような両義的な空間、聖地をハセと呼ぶ。そして、そのように水の流れがある時は泊まりまたある時は初まるような場は、山深き長い谷のある場所、すなわち「長谷」なのです。私たちの信濃長谷寺の境内の背後にも、深い谷川が流れ、その奥へと入るほどに、ハセと呼ぶにふさわしい「瀬」が見られます。

 

 白助の人生や体験の本質というのは、この長谷という場にいったこと、すなわち死と再生を体験してきたということであり、古代朝鮮語ともいわれる「シラ=生まれ清まり」が意味することと一致してくるのです。彼はハセという死と再生の聖地へ往き、そして還ってきた、まさしく「生まれ清まった男」だったのです。

 

 かつてハセという場に行くことは、宗教行為として、つまり巡礼として仮死と再生を擬似体験することに他ならなかったはずです。そのような特別な聖空間に祭られているのが十一面観世音菩薩なのです。生と死が渾然と融け合う幽明の境に、この仏は現れてくるのです。むろん、この地を聖地とし今に伝えてきた先人たちは、仏教を知りこの十一面観音と出合った時に、人間を再生するカミとしてこの仏の本質(悲性)を直感したに違いありません。彼らが十一面観音をして、生と死が一つになるハセにまつるべくしてまつる仏としたのは、この仏が本体とし誓願とする大悲心という観音性が人間の再生の決め手であると深く知っていたからに他ならず、古代信仰としてハセにおいて果たされていた魂の再生という営みをより普遍的に示しかつ体現するものとして、この菩薩のほかにふさわしいカミはないと理解したのだと思うのです。

 

 私たちの信濃長谷寺のある地も、間違いなく古代の日本人にとって生命の永遠ということや再生というものを祈る死と再生の霊場でした。寺の裏山に奥深くに広がる谷や、周辺にいくつも散在する古墳がそれを物語っていますが、何にもまして当山の開山伝説である『白助物語』が、この土地が格別な聖地であることを語っているのです。

 

 生まれ清まり、そしてハセ。この宗教的なテーマは、今なお私たち人間にとって深いテーマであり続けています。

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