住職日記

仏さまの歯の話

今日は、歯の話。

 

四世紀に、インドからスリランカに伝えられたというお釈迦さまの左の犬歯をまつるお寺がスリランカにある。スリランカの仏教徒のあつい信仰の対象となっていて、歴代王朝守護の宝物、王位継承の印として常に大切にされてきた。従って争奪もくり返された。現在はこの仏牙をまつる仏牙寺、または仏歯寺があり、ヌワラに祀られているそうです。スリランカ第一の名刹であり、平常は仏塔型の黄金の容器におさめられ、時には公開されるといいますから、お参りしてみたいですね。

仏さまには三十二相=完全無欠な容姿が備わっているといわれますが、こんな歌があります。

弥陀の御顔は秋の月

青蓮(しょうれん)の眼は夏の池

四十の歯ぐきは冬の雪

三十二相春の花

 

 

きっと、仏さまになると歯も増えるのですね・・・。

もっとも、歯は「消化の象徴」でもありますから、現代社会の溢れるばかりの情報をどうやって整理するか、自分にとって大切なものとそうでないものを判断するのが難しい。その意味で、仏さまにたくさんの歯があるというのは、与えられた情報をよく噛みくだく、智恵の歯が揃っているということも意味しているのではないでしょうか。

言い伝えによると、お釈迦様は、米粒をまず半分にし、それをまた半分にし、さらにまた半分にし、という風に、たったひと粒の米を長い時間をかけて食べたそうですね。穀物、ことに米を栽培した釈迦族の王子様らしいエピソードですが、お米を栄養にするためには、よく噛みもしないで飲み込んでしまうのはよろしくない。そうすると、胃が驚き下痢を起こす。下痢を起こすと、免疫機能が低下して、アレルギー体質になって肌荒れがひどくなる。これに習って、「米」というのを情報の喩えとして考えると、心の栄養、心の肌をいつも瑞々しく保つにも、よくたくさんの情報を噛むことは大切ですね。

歯を磨くためのツールが歯ブラシを筆頭にたくさんあるように、心の歯磨きにも、歯ブラシのような道具が必要になりますが、仏教というのは、ある意味で、そういう道具という面を持っているように思います。

歯ブラシで思い出しましたが、こんなお話しがあります。

長谷寺の本山である教徒の智積院の現在の金堂は、昭和50年に再建されたものです。それ以前のものは、明治の初めに火災で焼けてしまいましたが、とても立派なものでした。江戸時代に五代将軍綱吉のお母様、桂昌院から黄金一千両を寄付してもらって建てたものです。この綱吉公は「生類憐みの令」によって非常に有名な将軍です。生き物を大切にしなさいということで、犬猫に対して町民たちは無礼を働いてはいけないということになった法律です。お母さんが大変な仏教の信心家であったことから、その影響もあって仏の教えに基づいた法令を出して生き物に優しい社会を作ろうとしたんですね。気持ちは分りますが、庶民は大分迷惑だったようです。で、この将軍綱吉様も、大変な仏教の信心家なのですが、とてもハミガキに熱心な人だったそうです。信心家だったからこそ、歯磨きに熱心になったわけです。

 

仏教とハミガキといえば、いったいどんな関係があるのかと思うでしょう。我が国には歯磨きの習慣が入ってきたのは、6世紀の仏教伝来と一緒だといわれているんですね。あれこれ仏教と歯の歴史などを調べてみましたらモノの本に書いてありました。それまでは、日本には歯を磨くという習慣や文化は無かったのですね。意外でしたが、それまでの日本人はどうしていたんでしょうね。

 

今でも、私たち僧侶には大切な修行や法要がありますと、「丁子(ちょうじ)」という木の、花のあたりを小さく切ったものを口に含みまして、それをギュッとかみます。味は渋いというか、苦いというか、しびれる感じがしまして精神的に冴えてきます。で、口臭も消えますね。消えるというか、ある種の良い香りがします。落ち着いた、お香のような感じですね。きっと、仏教徒は仏さまにお祈りしたり瞑想をしていくときに、お香をたいたり、身体に香を塗ったりするばかりでなく、呼気も良いものにしようとしていたのでしょうね。事実お釈迦様も、昔の歯ブラシである歯木を木の種類まで指定してハミガキを奨励しています。身を清めることを通じて、心を仏に近づけていったのでしょうね。

 

さて、話が大分広がってしまいましたが、将軍綱吉はこの熱心に歯を磨きました。

 

そこで、ブラッシングに用いる「塩」にこだわりを示したようです。もちろん、当時は塩が中心ですね。将軍家御用達の歯磨き粉としての塩は、その当時までは、三河の国の吉良藩が納めていました。吉良といえば、ご存知の方もいると思いますが、あの赤穂浪士に討ち入りされて首を打たれてしまった吉良コウヅケノスケの吉良藩です。

 

何となく、ピンと来る方もいるかも知れませんね。

 

ここから、興味深いお話が出てくるわけですが、この将軍家御用達の吉良のお塩に新しい強敵が現れます。当時、にわかに人気急上昇のお塩が、吉良のお塩の将軍ご愛用という地位を脅かし始めたんですね。それが、赤穂のお塩だったんです。歯磨き用のお塩として大分人気が出て、赤穂の人たちも色気を出したんでしょうね。将軍に自慢のお塩を献上します。これが、運命だったんでしょう。ハミガキにこだわりを持つ将軍綱吉公は、この塩がたいそうお気に召してしまった。お気に召しただけでなく、「お上御用達」というお墨付きまで出してしまいます。これで困ったのは、それまで将軍家御用達だった吉良のお塩であり、吉良の殿様ですよね。「我が藩の一大事」というわけで、ライバル赤穂藩に対して、「このやろう」という気持ちがあったわけですね、当然。結局、それがあの有名な「松の廊下の刃傷沙汰」に発展して、刃物を振り回してしまった赤穂の若殿様は切腹、赤穂藩は取りつぶしという大事件に発展していきます。もとは、歯磨き粉ですからね、歯というのは、こんな大事件をはき起こす火種にさえなるわけです。その後、浪人モノとなった赤穂の浪士たち47人が、大石クラノスケに引き入れらて江戸の吉良邸に討ち入ったのはご存知の通りです。

 

さて、先に申し上げました通り、智積院というお寺は、この討ち入り事件のきっかけとなった歯の持ち主である将軍のお母さんによって金堂を作ってもらったばかりではなくって、討ち入りそのものにも実は深く関わっているんです。

 

というのは、金堂が完成してすぐこの寺の住職になった義山というお坊さんがいました。大変徳のある方だったということですが、実はこの方、こちらに来る前、赤穂のお寺で修行と勉学に励んでいらっしゃいました。若い頃、秀才の誉れ高い坊さんは、地域の若武者たちとも交流を深めるわけですね。そこで、赤穂の若き義山さんと出会っていたのが、若き日の大石クラノスケなんですね。

 

やがて、クラノスケさんは家老という大役に出世しますが、在任中にお家取りつぶしというとんでもない事件に遭遇してしまいます。いろいろとご苦労があったと思いますが、やがて主君の仇を討ち果たすという「討ち入り」という大事業もやってのけるわけです。

 

で、当時の幕府は、赤穂の浪人たちが臭いと目をつけていました。そのうちに何かやるぞ、というわけですね。だから、表立って討ち入りの準備なんて出来ません。ところが、決行当日に、彼らはたくさんの武具甲冑類を用意しています。何でこんなことが出来たんだ、と不思議なわけですが、実は、先ほどの義山という坊さんが、密かに寺の荷物として京都から江戸にそれらの武具甲冑類を送ってあげていたらしいのです。坊さんがそんなことしていいのかと思いもしますが、義山さんとクラノスケの間には、そんな激しい友情というのがあったのでしょうね。

 

そういうわけで、赤穂浪士の討ち入り事件というのは、元を正せば、将軍様の歯磨き粉を巡って始まったものですが、そのお母様に庇護を受けていた智積院は、この大事件にも実は深く関わっていたのですね。

 

良い歯というのについてまた付け加えますと、道元禅師という素晴らしいお坊さんが鎌倉時代にいらっしゃいますが、そのかたがこんな言葉を残していらっしゃいます。

 

「あしたに楊枝をかむ、まさに願わくは衆生とともに調伏の牙を得て、もろもろの煩悩をかまんことを」

 

「日常茶飯事」とは禅の言葉ですが、こうして仏道は何気ない日常の仕草の中に溶け込んでいったのですが、白い歯にばかりこだわってタレントさんみたいにピカピカな歯にするだけではなく、歯磨きの時には、仏さまの智恵の歯によって煩悩(弱い心、悪い心)を噛み砕き、消化して、むしろ生きていく栄養にしていきたいものですね。 

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