この頃、葬式が続いた。
年齢は90代の方ばかりで、99歳という方もおられた。
明治、大正、昭和、平成。
平坦でない時代は、こんな田舎に住む人たちの人生も、決して平凡なものにはしておかない。
いま、世の中に対していろいろと不平不満の多い私たちてあるが、このお年寄りたちの生き様を知るにつけ、不平不満はほどほどにしなくては、と思う。
「忍」という、いまや価値としては下落している徳において、お年寄りの中には、大変な力を持って生きてきた人がある。
今や少なくなった明治生まれの人たちには、特にそう感じさせられることが多い。
そういう人間的な力を、今はあまり評価しなくなったけれども、その生きてきた物語を聞かせていただくと、「これはもう十分すぎるほどに功徳を積んだねえ」と、私のような若輩の僧侶が引導を渡す必要などないくらいに、尊い魂の修行を果たし終えていると思われる方も多い。
このあたりでは、お葬式になると、ご家族の方がお寺にお願いに来てくださる。
葬儀の打ち合わせをするのであるが、その際に、主に喪主をつとめる方-むすこ・むすめ、時には孫、また時には親であることも・・・-に、亡くなった方のお話を聞かせていただく。
お誕生日は?
おばあちゃんの、お父さん、お母さんのお名前は?
ご兄弟は?
子ども時代は、どんなだったかお聞きになっていますか?
ご結婚は、いつごろ?
お子さんが生まれて、今のおうちを建てたんですか、なるほど。
それから、何がお好きでしたか、ご趣味とか。
それと、どんなお人柄でしたか、性格とか。
そんなふうに、ポツリポツリと、お尋ねしていくと、お子さんたちは、亡くなった母のことや父のことをあらためて振り返り、たどっていく。
「あれ、おふくろの父ちゃんは、なんて名前だったっけ」なんてこともあるけれど、あわただしく葬儀の支度に追われていく中で、故人の人生をたどるこのひと時は、私にとっても極めて意義深いのだけれど、喪主である家族にとって、思いがけず大切な時間となるようだ。
「俺が子どもの頃は、まあ、家の大変でね、なにしろうちだけじゃない、世の中みぃぃんな大変だったから、おふくろもさぁ」
と、母の若い頃の苦労話をポツリと始める。
そうやって、次第にいろんな記憶がほどけ初めて、いろんなお話を聞かせていただく。
葬式の導師を務めるのは、菩提寺の住職として、当然といえば当然のことではあるが、この時には、故人の思い出や人となり、人生のようなものを語り合い、こんな人であったなあということを互いに共有していくと、「良いお葬式」になっていくように思われる。
遺影の人が、どんな人物で、どんな生涯を送ったのか、遺族にとってどんな存在であったのかを知ることもなく葬式の導師をするのは、少なくとも、私の場合は困難なことだ。
そうしたやり取りを経て、私自身もこの葬送の列に連なる一人として、気持ちが参加していく。
良い葬儀、悪い葬儀、というものは、やはりあると思うが、亡き人を囲んで、その別れの時間に遺族の気持ちが暖かく向けられていると、ああいいお葬式だったなあ、と住職としても思う。
すくなくとも、そうやって遺族が心をこめてお弔いをしようとしている時に、「あの坊さんさえちゃんとしていたらもっといい葬式になったのになあ」、とだけは言われないようにしたいものである。
お葬式の前に – 住職日記