住職日記

思いを継いでいく場としての寺

昨日は、先輩のお坊さんの晋山式@軽井沢でした。

法要の最後に、体調を崩しているお父様(先代住職)が車椅子で登場し、声にならない声を振り絞って退任の挨拶をして新住職にエールを贈ったのでした。

50年という長い年月、住職をつとめた方です。

私の父の大変親しい友人でもあり、その病まれたお姿は、お元気だった頃の姿を知るものにとっては、とても痛ましいものでした。

介添えの僧侶が、マイクを手に持って口元に近づけると、それをさえぎって自らマイクを手に取られました。

どのようなことを仰るのかと、心して耳を澄ましました。

しかし、マイクを使っても、何を仰っているのか聞き取ることは出来ないのでした。

けれども、声を振り絞って何かを語りかけているのはしっかりと分かります。

何を言わんとしているのか、その具体的な事柄よりも、むしろ言葉にならない声と、伝えんとするその必死の仕草において、師から弟子へ、先代から新住職へと、大切なものが伝わっていったに違いありません。

その姿は息子である新住職さんにも、檀家さんたちにも、深く心に刻まれたことでしよう。

まさに万感の思いを継承する場面に立ち会うことが出来て感激でした。

思いを継いでいく。

そういうことが成り立ちにくい時代の風潮ですが、寺という場は、代々の住職というだけではなく、その地域の人々にとっても、そのようにして世代を超えていく一筋の思いが、静かに、しかし確かに流れていく場でもあると感じたのでした。

おめでとうございました。

コメント

  1. 雨ニモマケズ より:

     であるがゆえに、お寺のコミュニティセンターとしての役割が一層高まれば、と思います。
     キリスト教徒が毎日曜に教会に集まるように、地域の人々が頻繁にお寺に足を運び、日ごろの社会生活に伴う諸々の雑念を一旦振り払い、心を清らかにリセットする・・・
     そのためにも、お寺は法事だけでなく、いろいろな催事で身近な存在になっていただきたいですね。
     お寺を訪れたときに、御本尊が「よく来たね」と迎えてくれると感じるかどうかは、その人次第なのです。

  2. 長谷寺 より:

    雨ニモマケズ様
    今の世の中は、地域の関係性が強く求められる一方で、地縁や血縁による自然なコミュニティー指向に対しては、これを阻むような価値観や法律も形作られています。
    ですから、仏教(寺院)に対する期待はとても大きいのを感じますが、従来の方法論では、寺側も、地域住民も寺という場を活用しにくくなっていますね。
    いわゆる檀家制度によって、地域の財産である寺院を守ってくることが出来ましたが、現代は、この檀家制度が寺院の可能性を狭めている面もあります。それは、寺にとってというより、地域住民にとってこそ、損失なのだと思います。

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