長谷寺で、二度の公演をいただいた舞踏家の大野一雄さんが亡くなられた。
103歳だった。
舞踏について、門外漢の僕としては何も書くことはできないが、大野さんの舞を間近で観ることが出来たのは、素晴らしい思い出となっている。
長谷寺にお越しになった時は、すでに足腰がだいぶ弱っていらして、お弟子さんたちの手を借りて歩いていた。
「大丈夫なの?」
と、正直思ったのを今でもよく覚えている。
ところが、である。
公演の舞台となっていた観音堂の前庭に着くと、突然力強く動き出したのである。
それは驚くべき出来事であった。
たとえは悪いかもしれないが、捨ててあった操り人形をその道の名人が拾い上げて操作し始めたかのように、神さまが、歩くのもやっとだった大野一雄さんの肉体を拾い上げて意の如くに動かしている、という感じなのだ。
いや、でも、やはり操られているというのではなくて、確かな意思があったと思う。
けれども、それが大野一雄というひとつの人格からの意思であったかというと、どうもそれとも違うように思われた。
今ふりかえると、感応、あるいは加持という言葉がしきりに思われる。
長谷寺の建つハツセという場所には人間の心身や魂の「生まれ清まり」を実現させる、霊場としての力、今風に言うならパワースポットとしての力が息づいている。
そのような「力」は、恒に止むことなく私たちに注がれているが、私たちの心身の調和の乱れが、その力を受け止めることが出来ない。あるいは、その力の波長と私たちの波長がすれ違っている。
なんらかの祈りの作法、仕草、手続きによって、私たちの心身がその「力」を受け止めるに相応しい調和状態に至れば、私たちはその「力」とひとつになれる、という。
生まれ清まりの霊地であるハツセの多くに十一面観世音菩薩がまつられるということは、十一面観世音菩薩への祈りの作法を通じて、私たちはハツセというパワースポットが有している「生まれ清まり」の力の波長とひとつになれることを意味していよう。
十一面観音は、大悲心という愛の仏であるから、愛を舞い、舞によって愛を究め続けた大野さんにとっては、仏教の理屈や作法は方便とせずとも、その舞踏そのものが十分に観音(愛)への賛嘆、勧請、供養、一体化へのプロセスとしての力を備えていたに違いない。
ハツセという「生まれ清まり」の力に感応した大野さんの心身(三密)が、そこにまつられる観世音菩薩の大悲の加持力を受けて、入神の舞踏が顕現した。
と、、、今ならそんなふうに言うこともできるが、その時その場においては、ただただ眼前の奇跡に目を見張るばかりであった。
あの時の出来事は、説話のように語るほかはない。
この時、印象に残っていることが二つある。
ひとつは、やっと歩き始めた私の長男が、舞踏のワークショップの場にヨチヨチと紛れ込んでしまった時のことであった。
それまで、いすに座って若い舞踏家たちのワークショップの様子を見つめていた大野さんは、いすから立ち上がると、長男のヨチヨチと一緒にヨチヨチと踊り始めたのである。
そこには、子どもがいた。
長男は面白がって、その90歳の子どもと一緒にヨチヨチ歩く。
数分の間、そうやってふたりは庫裏の広間で「踊って」いた。
最後に、大野さんは、とても90歳の老人のものとは思えないしなやかな両の手をすうっと伸ばして、長男の両頬にふれた。
その時の、大野さんの微笑は、本当に深くあたたかい慈愛に溢れていた。
いのちそのものをいとおしく包み込むように、長男の頬を包んでいた。
美しい、忘れられない場面だ。
もうひとつは、親友であるアーティストの柿崎順一が、この二度にわたる大野一雄さんの公演に素晴らしい花を添えたことである。いや、花を添えたというよりは、見事に大野さんと協演していたというべきだろう。
柿崎は、その後で、活動の場を海外に広げていくが、今でも、彼の中に潜在している美の才能に、大野一雄さんが限りないインスピレーションを与えているように思える。
大野一雄さんは、柿崎順一に限らず、アーティストに雷を落とすように強いインスピレーションを与える方で、ご自身がすでに「パワースポット」のような方であったのだろう。
たった一度や二度の出会いなのに、これほどいろいろと思いだされるのであるから、日頃から接している御子息の慶人さんや、たくさんのお弟子さんたち、ファンの方々の悲しみは本当に深いものと思われます。
大野一雄さん、ありがとう、さようなら。
↓ぜひご覧下さい。
こんにちは。
その後お元気でおいででしょうか。
大野一雄さんが長谷寺で踊られたことを知り感動しています。
そして、仰るとおり「生まれ清まり」の力に感応された姿が
目に浮かぶようです。
舞に限らずとも、魂の宿るものは「おおいなるもの」に
繫がっているのですね…。
慶澄さんのお言葉、心に沁みました。
ありがとうございます。
大野一雄さんのご冥福をお祈りします。
ゆうわさま
ありがとうございます。
私は、大野さんの公演ではじめて「愛」というものを体感したように思います。
最初の公演で、寺の庫裏で舞っていただいたのですが、200人もの人でいっぱいになった庫裏が、本当に建物全体に愛が満ち満ちて、みんなが感激して涙を流しているのです。
舞というものの、深く大きな力を感じまた。
神仏への、ひとつの「言葉」として、舞の素晴らしさを知った瞬間でした。
ゆうわさんたちの美しい舞踊も、大野さんと同じ愛に溢れていると思います。
ぜひまた長谷寺で待ってください。