2008年の4月19日のブログに、こんなことを書いた。
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◇僕の夢
僕は夢見ている。
いつか、ダライ・ラマ14世が善光寺様にお参りにいらっしゃることを。
そして、善光寺一山の和尚様たちを中心にして、日本中のお坊さんや多くの信者、もちろん他宗教の神父さんや信徒さんとともに、あの国宝の大本堂でチベットの解放はもちろん、非暴力と対話に基づく世界平和を祈りたいと。
ダライ・ラマ14世が『お数珠頂戴』をなさってくれたら、どんなに素敵だろうか。
来年の御開帳なんか、どうかなあ。
もちろん、来ていただくことだけではなく、チベットの平和的解決こそが、真の夢として描かれ実現されていくべきことである。
僕の夢はともかくとして、善光寺様には、宗教的なリーダーとして、今まで以上に慈悲や愛を守り、与え続けて欲しい。
南無善光寺如来
南無阿弥陀仏
合掌
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http://www.hasedera.net/blog/2008/04/post_46.html
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と、このように書いた「夢」が、実現したのである。
考えてみたら、すげえ。
というわけで、昨日は、ダライ・ラマ法王14世の講演会に行ってきました。
午前中には、御宿泊のホテルで開催された主に宗教者を対象とした「囲む会」。
そして午後には大きな施設(ビックハット)に一般とした記念講演。
この午後の講演のあとの質疑応答の時である。
何人かの質問者が立ち、それぞれに抱いていた質問を投げかけた。
ある人は「私はニューヨーク滞在中に、あの9.11のテロに遭い、その後≪生と死≫について考え続けていますが、法王さまにとって、生と死とは?」。
質問というのは、なかなか恐ろしいもので、その問いによってその人の理解や認識の程度が分かってしまう。
質問者が、何を問題とし、どのようなことをテーマとして生きているのか。
そういうことが露呈する。
だから、本来、法王猊下のような師に対して自分の実存をかけて問いかけるのは、6500人もの人々が注視しているような場で、しかも主催者から「出来るだけ分かり易く、簡潔に、政治的なことは避けて」という条件を指図されて、なされるものではないのだと思う。
ふと、映画「チベット・チベット」の監督キム・スンヨンさんのエピソードを思い出した。
キム監督がチベットを旅していた時に、ある村で宿を取った時のこと。
たまたま、チベット仏教で≪ゲシェ≫と称される高僧と同宿になった。ゲシェというのは称号だ。厳しい仏教学を窮めた僧侶の中でも、格別すぐれた人が然るべき修行の階梯をクリアして初めて認められる呼び名だ。
しかし当時の監督はそのゲシェがどんなに偉い坊さんなのかまったく分からなかった。ただ、周囲の尊敬振りやご本人の雰囲気から次第にただものではないということが分かってくる。
そのうちに、お茶だったか食事だったかの時間になって、そのゲシェと2人きりになった。
しばらく黙っていたら、そのゲシェが穏やかな口調でこう言ってくれたそうだ。
「君は、私に対して何でも尋ねていいのだよ」
特別なお坊さんだということが分かってきた監督は、その長い旅の旅立ちの理由でもあった≪悩み≫を思い切ってぶつけてみたのである。
それは在日韓国人である監督のルーツにかかわるなかなか重大な事柄だったが、そのゲシェの答えは監督のその後の選択に大きな影響をもたらしたという。
なぜかその後の詳細は忘れてしまったが、私はそのゲシェが監督に対して「何でも尋ねていいのだよ」といったその言葉が非常に印象に残った。
その後、大阪でチベット仏教の修行と研究をなさっているH先生とお会いした時には、こんな話しを聞いた。
「岡澤くんも、いつか法王さまに会うことができるかも知れんなぁ。そしたらな、君にな、ほんまに分からんことがあって、それが分からんままやったら次に進めえへんというようなこと、そういうことを法王さまに思い切ってぶつけてみい、かなぁらず何か的確な意見を示してくれるから」
ということで、ご自身の実体験を語ってくださったが、それはそれは驚いてしまうようなお話しだった。
年来の疑問に対するお答えはもとより、H先生が何故その疑問に囚われ、どうして解決できなかったかというところまで、完璧に、しかも即答してしまったという。
だから、この大ホールでの質疑応答というのも、我々聴衆は想像力を働かせて、法王さまと質問者との一対一の場面で、赤裸々な自分をさらけ出す覚悟で思い切って質問している状況なのだ、と思って聞くべきである。
そこで私は、一体、こうした質問に対して、法王さまはどんなお答えを示されるのか注視した。
先ほどの「生と死とは?」という質問を聞き終えた法王さま、一呼吸おいて「I do not know」。
それで会場に大きな笑いが湧き上がった。
「I do not know」。
必死な表情で問いかけていた質問者まで手を叩いて笑っている。
これはいったい。。。。
会場の盛り上がりが一旦静まると、法王さまはまた「I do not know」といって笑いながら言葉をつないでいった。
またある質問者は「私はアーティストで、かくかくしかじかの活動をしていますが、そのチャリティーによって集まったお金を、どう使うべきか教えてください」
すると、法王さまは吹き出すように笑われてから、“I do not know”.
この時は、質問者の個人的な思いの深さと質問の長さのわりには一般性のない問い方だったために、会場全体に白けて「おいおい何言ってんだ」というムードまで流れかかったが、法王さまの”I do not know”でいささか不穏なムードが吹き払われてしまった。
そして、法王さまは「使い道はご自分で考えてほしい」と微笑んで語りかけてから、利己的な金儲けとは違うチャリティーによって集まったお金をどう使うか悩んでいることを大きく評価して、これからの世代の人々の生き方のあり方を語った。
質問者たちの多くの質問は、”I do not know”.と云われてしまうのだが、そのことばによって、本人も会場もとてもリラックスしたムードになってしまう。
そして、質問者は、法王さまの次に続く言葉によって、自分の質問の意味や、その質問が今後どのような方向へと解決の道を求めていくべきかといった、大きな指針を授かることになる。
そして聴衆もまた、質問者の個人史的な、一見するところ平凡だったり、時にはそれほど共同化できないテーマであるように思われる「質問」であっても、そのような質問が生じてくる人間性のありようや社会的背景を示され、そしてそのようなレベルの問題はどのような認識と覚悟によって解決されていくべきかを論理的に説かれるのを聞くうちに、まるで自分の質問であるかのような喜びをえる。
通訳の方も、大変丁寧に、法王さまの深い言葉を、私たちの理解が届くようにフォローしながら訳してくださった。専門用語も、ちゃんと分かるように補っていてくださった。
ところで、先ほどのH先生が法王さまの講演や伝授を通訳をされた時に居合わせた人の感想を聞くところでは、H先生の大阪弁によって翻訳された法王さまのお言葉は、快活なダライラマ14世の語り口が生き生きと表現されて、もしかすると法王さまのユーモアやエネルギーは、標準語よりも大阪弁によってこそ伝わるのではないか、と言っていたのを思いです。
大阪弁による法王さまの説法。
すると、”I do not know”.は、「存じ上げません」ではなく、「わいには分かりまへん」とか「わいは、知りまへん」とか「わからんわぁ、すまんのぉ」となる。
(http://translation.infoseek.co.jp/ ←英語を関西弁に翻訳!)
標準語は、一般性があるから理解の助けにはなる。
しかし、力強さや弾力、ユーモア、それから慈悲深さの様な表現になると、関西弁や各地の方言のほうが断然良い。
むろん、今回法王さまは日本人への「提言」としてユーモアたっぷりに、「英語を使えるようになってほしい」と言っていましたから、翻訳のマドロッコシサは残念に思っているのかもしれないし、チベット語で対話できるなら何よりだ。
もっとも、今は法王さまの著書の優れた訳書もたくさん出ているから、日本語でも法王さまの言葉は味わうことは出来る。
でもいつか、僕もH先生の大阪弁による通訳で講演を聞いたみたいなあ。
待ってましたぁ~、慶澄さんっ!!
日曜の出来事を書いてくださることを信じ、
心待ちにしておりましたぁ!
ありがとうございます!
色々と、ご準備から何から何まで、ご住職の皆様、
スタッフの皆様が労を為してくださり、
感謝です!
法王の生の声でお話を伺えることは、
「肌を通して解かる」という感じで感動でした。
そこには、本で読んでいる時の行間を埋める作業
とはまた違う「気付き―行間埋め作業」がありました。
「個人」の問題を「全体」にしてしまう法王のお心の深さに感動しました。そこからでなければ、「60億の人類はひとつ」という地点に立てませんものね。わたしたちキリスト者もまったく同じです。
そして強く感じたのは法王の「徹底的なる人類への希望」です。
うれしい一日でした…。
慶澄さんの質問なさりたい内容は、何でしたのかしら?
そして、わたしの質問は何であるのかと、さらにもう一度自分に問うています。
それではまた。
語り得ぬことについては
沈黙しなければならない
と
「死」とは何かについて問われた
釈尊はお答えになられたとか…
ゆうわさま
ありがとうございます。
善光寺さんの今回のダライラマ法王招聘プロジェクトは、とっても意義深いものになったと感じています。
>法王の生の声でお話を伺えることは、
「肌を通して解かる」という感じで感動でした。
このデジタルな時代ですが、3Dが進化しても、実物と出会う力には及びませんものね。
同じ「場・時」を共有してダライラマ法王と出会うと、今度はそれによって新しい自分を見出すことにもなるのでしょうね。
私の問い。
私も、二度の講演の間中、お話しを聞きながら、この千載一遇の場で、一体何を問いかけるべきか、と考えていました。
自分の問いを問うということですが、それ自体非常に意義深いことだったと思います。
実際に対話したわけでも問うたわけでもありませんが、ある意味で、ダライラマ法王という同時代を代表する知性・霊性を備えて生きる人物が目の前にいるということで、僕にもそんなことが出来たのだと思います。
キリスト教、仏教など、「宗派」の基底を支える次元にまなざしを向けていくことが、もっともっと大切になっていくでしょうね。
ご存知と思いますが、ダライラマ法王には、こんなご著書も。
「ダライ・ラマ、イエスを語る」
http://amzn.to/cC0wTs
幽黙さま
おお、確かにそうですね。
無記、という対応。
“I do not know”というのは、そのユーモアとともに、釈尊の無記の態度をダライ・ラマ法王流に示されていると考えるべきかもしれません。
多くの人が、自分のスケールの中で想定した「答え」を、はじめから甘く期待してしまっています。
そのようなことも踏まえて、対応されているのでしょうか。
小生も、「人間は死んだらどうなるの?」という問いかけに対して、答えなかったお釈迦さまを思い出しました。あるいは、「不二の法門」について沈黙した維摩居士。
ものごとを常に現実的にとらえ、形而上的なことには答えを出さない姿勢・・・。
法王への質問は、極めて個別具体的(個人的で詳細)だったわけですが、上記と合わせて考えると、やはり、これらの中間、即ち、神仏との関係で”人間の生きる道の本筋”を説くのが宗教なのだろう、と思うのです。
私もH先生の大阪弁による通訳で講演を聞いたみいと思います!!
コンパッション3も拝見しました。
無魔成満とはまさしくこういうことは言うのでしょうか。
本当にお疲れさまでございます。
あの場で私自身も「私の問いはなんだろうか」と考えました。
それはとても難しい作業でした。
他者の視線を気にせずに、本当に自分自身の問いかと言われれば、では自分とはどこからどこまで?などと考えてしまうし、思いついたものの、まずはもっと知識を深めてからでないと畏れ多いだろうと、さっさとあきらめてしまいしまた。
I don’t know
60億人の人を思えば、その苦しみから抜け出る助けになるかもしれない
この小さい国の中で孤独に苛まれるのではなく、海外へでて、世界を広げて欲しい
前半のお話があったからこそかもしれませんが、終わり近くにおっしゃった、これらのメッセージが心に残りました。
一見意味のないような質問が、とても面白い答えを導き出すのだと、私もあの場で感動してしまいました。
あの場を法王とともに、尊敬する人たちとともに、友たちとともに共有できたことを本当に嬉しく思います。
雨ニモマケズさま
ありがとうございます。
私も若い時に、尊敬していた先生に友人の死に関して思うところを書き連ねた手紙を差し出したことがありましたが、結局それに対する先生からのお返事はありませんでした。
当初は、残念な気持ちを抱いていましたが、その後も何度もお会いする機会があり、そのたびに変わらぬ親しさで接してくださいました。
今では、この先生の対応の中にも、同じようなことを感じています。
>神仏との関係で”人間の生きる道の本筋”を説くのが宗教
なるほど、「神仏との関係で」。。。
関係に着眼するのは、大切なことですね。
ゆかりさま
自分にとって、千載一遇の「師」を前にして「たった一つ」何を問うか、と考えるのは、なかなか有効なことですね。
確かに、思い浮かんでくるさまざまな問いとその解決が、自分にとってどんな意味を持つのかもあわせて考えることにもなりますし、「私とは何なんだろうということも考えないではいられません。
問うべきものが見えなくなっているということを打開したいのですが、という問いもまたありますね。
>あの場を法王とともに、尊敬する人たちとともに、友たちとともに共有できたことを本当に嬉しく思います。
↑ある講演は、ツイッターで実況されていましたが、その時に実況している方は「法王の言葉を分かち合いましょう(シェアしましょう)」と呼びかけていましたね。