先日、東京にお住まいのお檀家さんのお葬式に行ってまいりました。
大変お世話になっているご一家の、お婆さまがお亡くなりになったのです。
菩提寺の住職として、またお世話になった一人のご縁のものとして、お弔いに伺いました。
斎場は大変大きな施設でした。
私のような地方の僧侶にとって、衝撃的だったのは、同じ時間に同時に6つの通夜が進行したことでした。
お経を読み始めると、左右の会場から、それぞれのお坊さんの叩く木魚の音が響いてくるのです。
その時に、大都会というものがどういうものか、ひとつ勉強になりました。
もちろん、そのような会場であるからといっても、大切な人を亡くした遺族の悲しみや嘆きが地方の人間と違うわけではありません。
ただ、その家族に流れていた特有の時間の流れで亡き人との別れを果たしていくのは、すこし難しいようにも思われました。
大都会の、圧倒的な人の数と、その分だけ当然のことながらある『死』。
次々と死があり、それだけ次々と葬儀がある。
隣でも、その隣でも、通夜、葬儀が執行され、ずらりと並んだ火葬設備が、次の別れを待っている。
その流れの中では、大切な人の死、掛け替えのない人の死が、ずらりと並んだ数ある中の死のひとつであるという、そんな感覚に襲われかねない。
タイムスケジュールは、長野とそれほど変わりはないはずなのに、確かに田舎のほうがその時間がゆっくりとながれていると思われた。
斎場で行う葬儀が大半になってきた長野市周辺でも、同時進行の葬儀や通夜は滅多にない。
東京の葬儀を批判するわけでもないし、気の毒に思うつもりもない。
地方のほうが『良い』と誇るつもりもない。
ただ、今回のご葬儀を経験して、溢れかえる人間が肩を寄せ合って生きる大都会の中で、効率を大切にしつつ、亡き人との別れを丁寧に行おうとすれば、家族葬という新しい形は、必然的なものなのだろうと頷くところがあった。
グリーフ・ワーク(四十九日・供養)には、純粋に悲しむことや追想することで、亡き人との別れをし悲しみから立ち直っていく道であるが、それに付随して様々な用事や弔問者への対応があることで、精神的な空白が生じないようにする、良い意味で緊張を維持するための経験的な智恵が働いているように思う。
家族をなくした衝撃は、例え覚悟していても、とても大きなものだから、気を紛らすということが大きな救いになるのは確かだ。その気を紛らすことと、グリーフ・ワークとのバランスが程よければ、良い葬儀や心のこもった別れが出来るのだろう。でも、そのいずれかに偏りすぎれば、葬送全体の印象がイマイチになってしまう。
大都会で家族葬という流れが進むのは、気を紛らわすような雑事があまりに多くなりすぎないようにする智恵とも思えるし、地方での伝統的な形(いろんな風習や付き合いへの答礼)の維持は、ゆったりとした時間の中での死に向き合いすぎないようにする智恵、とも思われる。
いずれの場合も、別れや供養の営みを、亡き人と遺族を中心に置いて働いている智恵だと思う。
このバランスが狂ってしまうのは、亡き人や遺族とは別のものを優先することによっておこるのではないか。
もうひとつ、これはまた違うお葬式において勉強になったことだが、、、、。
ご遺族のためを思い発した言葉が、ご家族やご親族の人間関係を良く知らないために、余計な心労を招いてしまったということを経験した。
葬式は、亡き人を取り巻く関係性の中で行われるものだから、本来、その関係性に対する一定の理解をもって葬儀に挑むのが、住職にとっては大切になる。
そういう情報は一切度外視して、たんに儀式だけのために淡々と引き受けることもあるだろうが、僕としては、果たしてそれでよいのかという思いがあり、少しでもご本人やご家族の関係を理解しているほうが良いと思う。
ただ、中途半端な理解や理解したつもりでの言動は、思いやりのつもりであっても、逆に力になって差し上げたいと思った人にいっそうの心的負担(アリガタ迷惑)を加えてしまうことがある。だから今回、葬儀に先立っては、ご家族との話し合いはより慎重にしなくてはならないことを学んだ。
どんなお葬式でも、学ぶことがある。
十年前の母の死は、家族にとって究極の悲しみでありました。そうしたとき、四十九日(そして一周忌、新盆、三回忌)までの様々な”風習や付き合いへの答礼”は、まさに気を紛らわし(一瞬でもこの現実を忘れる、即ち関心事を別に向けることが、なんて気持ち的に楽なんだろう、と思ったものです)、「それでも残された者で力を合わせて生きていこう」という立ち直りへの大切な”雑事”でありました。
都会の家族葬では、確固とした心の拠り所があればまだしも、どうしても”死に向い合い”過ぎることになって辛い、苦しいのではないか、そんな風に思います。都会の人間関係は希薄だと言われるのも、あるいは都市部を中心に新興宗教が勢力を伸ばすのも、こうしたことと無関係ではないのではないでしょうか。
雨ニモマケズさま
ありがとうございます。
伝統的な儀礼や習俗の中には、人間の弱さを前提にした思いやり深いものがありますね。
また、伝統的な習慣に関して思うのは、不遇な状況を前提にしていること、また、悲惨で無残な出来事を、「ありうること」として想定していることです。
逆に、今日の私たちの考えは、便利な都市生活や、無事な一生を当たり前のようにとらえている節があります。
>都会の家族葬では、確固とした心の拠り所があればまだしも、どうしても”死に向い合い”過ぎることになって辛い、苦しいのではないか、そんな風に思います。都会の人間関係は希薄だと言われるのも、あるいは都市部を中心に新興宗教が勢力を伸ばすのも、こうしたことと無関係ではないのではないでしょうか。
なるほど、同感です。
都市生活は、価値観の固定化を拒み、ひたすら人を消費への向かわせるために、地縁や血縁から人間を「解放」しようとします。
それは都市の為にはなりますが、人間の為にはなっていないと思われますね。
その結果、根無しになり、寄って立つ普遍的な価値観を持てなくなると、そのような人の心の空白を埋めるような宗教が跋扈することになります。
弱き人間性を前提とし、その弱き人間を守るために発達してきた地縁や血縁というセーフティーネットを、都市生活は認めませんから、どうしても弱き人間を受け止める場が、地縁や血縁とは全く違う姿で求められ、それが閉ざされた世界観の新宗教であり、その思想の質はともあれ、その中にいれば弱き人間性が安堵できるようになる。
また、都市型の新宗教は、都市生活を否定するわけに行かないので、その意味では真に人間の癒しや救済になり得ない裏腹さもあると思います。
仏陀の教説は、そもそも商業都市において発せられ、発達したものですから、その深い人間観は、むしろこれからの時代においてより意義深いものになりますね。