住職日記

漢字と仏像

宗派の講習会で、興味深い講演を聞いた。

仏教の公伝にまつわる話だ。

日本に仏教をもたらしたのは、正史においては百済の王によって西暦552年という。

ところが、百済に仏教が伝わったのは、それより160年以上前だという。

その間、百済と日本の濃密な交渉は日本書紀の通りである。

盛んな交通があったのに、仏教だけが160年伝わらなかったということは考えにくい。

その160年は、当時の日本人が、仏教を受容するかどうかで深く逡巡した年月であったのではないか。

その逡巡は、「偶像崇拝」が焦点だった。

尊いものは目に見えない。

その姿を表すことはできない。

そういう、人類の長い宗教史において、実は仏教はその姿を象るという画期的な一歩を踏み出した。

仏像の誕生。

仏が説いた法を尊ぶことから、その尊い法を説いた仏そのものへと強い関心が傾いていく。

しかし、日本も本来は、神像等は造らない神道の世界があった。

仏教というより、この「像」をどう受け止めるか。

宗教的なタブーを踏み越えている、この驚くべき「像」を、いかにするか。

崇仏論争は、仏教の思想をめぐっての論争ではなく、偶像を容認するかどうかという問題としてこそあった。

そして、160年以上の逡巡の果てに、日本は、仏像を受け入れるという決断(仏教公伝)に踏み切った。

それによって、古墳の造営がなくなり、寺が作られるようになる。

 

一方、漢字はどうか。

ある意味、仏像よりもさらに送れて漢字は受容される。

漢字もまた、言霊の国においては、ある種の偶像であったのかもしれない。

漢字の受容には、160年どころか、下手をすると10世紀ほどの逡巡があったかもしれない。

稲作が、従来の説よりも遥か古代にさかのぼって開始されていたことが判明しつつある今、大陸の文化や技術が流入している中で、漢字だけが入ってこなかったということはありえない。

そうではなく、入ってきていたけれども、その行使について、日本人は極めて慎重であった。

そしてその慎重さは、漢字かな混じり文という、アクロバットな表記・表現を生み出すにいたる。

むしろ、この表記の発明によって、漢字を受容することが可能になったのかもしれない。

 

ああ、面白い。

 

そういえば、「秘仏」ってなんだろうと、しばしば考える。

そこには、いろんな要素があるに違いないが、人類の精神の古層に横たわる宗教心として、尊いもの、聖なるものは目には見えない、という強い思いが働いてのことなのかもしれないなあ。

 

あ、面白い。

コメント

  1. 雨ニモマケズ より:

     お釈迦さまは、入滅される最後の説法において、「自燈明、法燈明」と述べられた。それが、衆生を広く救済しようとする大乗運動などを経て、「帰依仏、帰依法、帰依僧」とされるようになった。
     確かに在家の我々にとっては、「仏像」のおかげで信仰への道がスムーズになったと言える。さらには、「像」だけでなく、涅槃図をはじめとする様々な仏画(浄土教における二河白道図、密教における両界曼荼羅などなど)が、「法」を視覚的に表現してくれて、イメージを通じて我々を仏道に導いてくれる。
     一方で、妙法蓮華経という「法」そのものを「仏」とする日蓮宗や、「阿」の梵字に大日如来という「仏」が顕わされるとする瞑想法、阿字観が伝えられる真言宗も興味深い。

  2. 長谷寺 より:

    雨ニモマケズさま
    ありがとうございます。
    目には見えない世界、あるい精神性を視覚化しようとするあくなき思いが、人間にはあって、大乗仏教の運動を牽引した人たちの中には、その思いがひときわ強く湧き上がったのでしょうね。
    仏像に関しては、世界中の名作とされる彫刻と比較しても、日本の仏像の数々は群を抜いたもの。美術品としてみても、日本の仏像のような名作はないと思います。
    むろん、美術品として形作られたものではありませんが、本当に素晴らしいものばかりですね。
    確かに、象徴として梵字や漢字を生かす宗教実践は興味深いですね。智の積み重ねと、その堆積沈潜した智をエネルギーとする霊的直感の働きを活性化するものといえましょうか。
    真言宗は、そのような意味では、独立した宗派と考えるより、仏教全体の修学の進んだ人たちが行う、かなり高度で専門的な実践としてあるべき道だと思います。

  3. 幽黙 より:

    過去記事にもいくつか
    コメントしたはずなのに
    どれもコメントがありませんでした(T_T)
    おもしろいお話ですね
    仏教(仏像)と漢字の伝来について
    あらためて考察してみたくなります
    秘仏に関しては
    いろいろ思うことがあります
    昔の人が形を与えたものが秘められて
    その姿を見ることができないのは
    仏師の立場からどうなんだろう?とか
    せっかく形を得た仏さまとしても
    寂しくないだろうかとか
    わけのわからんことを思ったり
    でも東大寺二月堂のお水取りの
    儀式を拝していると
    あのお厨子の中の観音が
    そこに実体があろうとなかろうと
    どうでもいいような感覚にもなる
    どちらも真実
    難しく不思議なものです

  4. 長谷寺 より:

    幽黙さま
    >過去記事にもいくつか
    コメントしたはずなのに
    どれもコメントがありませんでした(T_T)
    ↑あららら、それはそれは、どうか懲りずに書き込み願います。
    秘仏というのは、いろんな要素があるものなんでしょうね。
    それぞれの説にはそれぞれの説得力がありますし、またどんなに説得力があっても、「見たいなあ、お姿を拝みたいなあ」という気持ちもまた、我々にとっては正直なところですね。
    うちの観音堂は、数年前の大改修の際、宮大工さんがいろいろと検討していましたが、どうやら建築当初は「入り口」がなかったのではないか、と言ってました。
    つまり、堂内は、観音さまの占有空間だったわけですね。
    おそらく、その中には住職であっても入れないような、完全に密閉された本尊の間。
    時代が下って、僧侶や神職が入り、さらに信徒が入り込んでいくに従い、入り口が造作され、内陣や外陣という仕切り方になっていく。
    もしかしたら、「秘仏」というのは、本来の占有空間が次第に狭められていったものであったかもしれません。
    改修工事のとき、厨子をずらしたら、図示の陰になって見えないところに、十一面の梵字が彫られていました。
    それを見た大工さんが、「ほら、もともと厨子なんか無かったんじゃないか」と、、、。
    お堂そのものが、秘するためというよりは、観音さまだけの世界として厳しく結界されていたのかもしれませんね。
    こういうことを考えるのは、面白いものですね。

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