真言教学のみならず、現代仏教の泰斗、偉大な学僧である宮坂宥勝猊下が御遷化なされた。
世寿90歳。
私は、たまたま宮坂猊下が総本山智積院において能化(管長)として在任中に、5年間本山勤めをさせていただいた。
私は直接接する機会のない部署で働いていたけれども、朝のお勤めや、時折境内を散策されている折などにそのお姿を見かけたりすることがあった。
学者らしい真面目さが第一印象であり、またそのイメージが付きまとってはいたけれども、侍者をお供に、あちこちにお忍びでスケッチ旅行に出かけたり、歌を詠むために京都の東山三十六峯を登ったり、いろいろなエピソードを耳にしているうちに、その仏教学の世界での巨大な業績ばかりでなく、芸術を愛し、自然を愛し、また弟子を思う優しさや思いやりある人柄が感じられてきた。
本山の能化さまは、緋色のお衣を召される。大僧正の衣の色であり、真言宗では、勤行以外の主だった法要では常にこの色のお衣でご出仕なされる。
いつもこの色だったせいであろう。当時3歳の息子が、何度も法要に参列しているうちに、宮坂猊下のお顔を覚え、やかで「にんじんのお坊さん」と呼ぶようになったのだ。
最初は、女房もいったい何を言っているのか分からず、首をかしげていたが、ある大法要の折に、お輿に乗られた猊下が緋色のお衣姿で鋳るのを指差して「ホラ、お母さん、にんじんのお坊さんでしょう」といったのである。
なるほど、子供にとっては緋の色はにんじんの色であった。
以来、むろんご本人に向かって「にんじんのお坊さん」と口が滑っても言えなかったが、我が家では、息子を交えて法要の話しをしたりする時にはしばしば「にんじんのお坊さんがいたねえ」と、話し合ったものである。
そのうちに、息子にとっても、その「にんじんのお坊さん」が、とても立派な方であることが感じられてきたのか、境内ですれ違うと、ちゃんと手を合わせて頭を下げるようになり、「ねえねえ、きょうにんじんのお坊さんがお散歩してたから、コンニチワって言ったよ」「そしたらね、にんじんのお坊さんも、コンニチワって言ったよ」「おほほほって笑っていたよ」などと得意げに話したりした。
私が本山を下山(退職)する時、時の侍者に無理を言って頼み込み、記念に宮坂猊下に一軸の書を願った。
願うところの意を書き添えた。
小学1年になっていた息子に何かお大師さまのお言葉をお選びください、と。
するとしばらくして侍者が猊下のご染筆を届けてくれた。
そこにはこうあった。
夫禿樹定非禿
遇春則栄華
それ禿(かぶろ)なる樹 定んで禿なる非ず
春に遭ふときはすなわち栄え華さく
(弘法大師空海『秘蔵宝鑰』巻上)
必ず冬の道を歩くであろう若者へのエールであったし、学究の道々を振り返り、人生というものの四季を歩んできた大先達の感興の言葉とも言えるであろう。
書に添えて、一筆箋に万年筆で書き下してくださってあった。
きっと浅学の私を思いやってくださってのことであろうが、その一筆箋に何かの書き損じか、途中丁寧にホワイトが入れられて訂正されていたのだ。そんなところにも、お人柄がしのばれる。
平成17年に、真言宗全体の大法要である後七日御修法においてその大導師(大阿闍梨)をお勤めになった折、こんな歌を詠じられた。
これの世にほとけまことにまなかひにしたるおどろき頬伝うもの
修法のさなかに御仏との遭遇に感極まって滂沱した感興の歌。
そして、次の歌。
満願のいましうつつに曼荼羅のほとけ立ち現れて我を迎えぬ
世寿90歳。
仏教学に生涯をかけた偉大な学僧を曼荼羅の諸仏諸菩薩が立ち現れて来迎されたに違いない。
南無大師遍照金剛