梅が香り、桜が咲き、桃の開く春を迎えると、お釈迦さまの生日、四月八日がやってきます。暦の妙か、辛い冬が去って、いっせいに花々が咲くこの季節に、お釈迦さまはお生まれになのです。
私たちの仏心もまたそうかもしれません。冬なくして花が咲かないように、悲しみを知らず、苦しみも知らずして、仏心が生まれることはありません。チベットには、泣き虫菩薩と呼ばたみじめな菩薩が、何を見ても聞いてもめそめそと涙をこぼし、ぼした涙が水溜りとなり、次第に池となり、やがて大きなきな湖になると悲しみが極まって大悲観音菩薩になったとい
うお話しがあります。
うお話しがあります。
悲しいという言葉は「かなわない」に通じ、力の及ばない、ちっぽけな存在であるという嘆きの言葉とされます。しかし、この悲嘆が極まって悲しみの自己中心性がはじけ、人間という存在の普遍的な悲しみに到ると、他者の悲しみを真に分かち合う大いなる悲しみ(=思いやり=観音性)に深化するのだと思います。
言うまでもなく、今、私たち日本は深刻な苦難と深い悲しみの中にあります。東日本大震災がもたらしている悲しみ、とり
わけ被災地の人々の悲しみの深さは計り知れません。圧倒的な自然前で私たちは自らの無力さに打ちのめされています。手に負えない放射能の前で途方に暮れています。
花まつりは誕生仏に甘茶をそそいで祝う日ですが、今年の悲しみにくれる春においては、皆さんと共に被災者の悲しみを分かち合い、これからの辛い日々を共に耐えて、いつか心から春の花を共に愛で合う日まで被災地の方々と共にあることを誓う「思いやりの誕生日」とし、小さな我が仏心に涙をそそぎたいたいと思います。
(奈良県 明日香村 岡本寺 葉書説法に寄稿したものを転載)
仏教において、観音菩薩とともに、私たちの苦難を癒してくださるのが薬師如来さま。
東方の、太陽の昇り来る深い瑠璃の世界においでになり、私たちの病や苦しみや悩みに応じて癒しの薬を与えてくださる。私たちを癒して止まない、太陽や、空や、あるいは大地や風や水、虚空。そのハタラキヲ仏教では、薬師如来と呼ぶ。
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『祈り』
山尾三省
南無浄瑠璃光
海の薬師如来
われらの病んだ心身を 癒したまえ
その深い 青の呼吸で 癒したまえ
南無浄瑠璃光
山の薬師如来
われらの病んだ欲望を 癒したまえ
その深い 青の呼吸で 癒したまえ
南無浄瑠璃光
川の薬師如来
われらの病んだ眠りを 癒したまえ
その深い せせらぎの音に やすらかな枕を 戻したまえ
南無浄瑠璃光
われら人の内なる薬師如来
われらの病んだ科学を 癒したまえ
科学をして すべてのいのちに奉仕する 手だてとなしたまえ
南無浄瑠璃光
樹木の薬師如来
われらの沈み悲しむ心を 祝わしたまえ
その立ち尽くす 青の姿に
われらもまた静かに 深く立ち尽くすことを 学ばせたまえ
(南無浄瑠璃光
風の薬師如来
われらの閉じた呼吸を 解き放ちたまえ
その大いなる 青の道すじに 解き放ちたまえ)
(南無浄瑠璃光
虚空なる薬師如来
われらの怖れ乱れる心を 鎮めたまえ
その限りない 青の透明に 鎮めたまえ)
南無浄瑠璃光
大地の薬師如来
われらの病んだ文明社会を 癒したまえ
その深い 青の呼吸の あなたご自身を あらわしたまえ
オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ
南無浄瑠璃光
海の薬師如来
われらの病んだ心身を 癒したまえ
その深い 青の呼吸で 癒したまえ
南無浄瑠璃光
山の薬師如来
われらの病んだ欲望を 癒したまえ
その深い 青の呼吸で 癒したまえ
南無浄瑠璃光
川の薬師如来
われらの病んだ眠りを 癒したまえ
その深い せせらぎの音に やすらかな枕を 戻したまえ
南無浄瑠璃光
われら人の内なる薬師如来
われらの病んだ科学を 癒したまえ
科学をして すべてのいのちに奉仕する 手だてとなしたまえ
南無浄瑠璃光
樹木の薬師如来
われらの沈み悲しむ心を 祝わしたまえ
その立ち尽くす 青の姿に
われらもまた静かに 深く立ち尽くすことを 学ばせたまえ
(南無浄瑠璃光
風の薬師如来
われらの閉じた呼吸を 解き放ちたまえ
その大いなる 青の道すじに 解き放ちたまえ)
(南無浄瑠璃光
虚空なる薬師如来
われらの怖れ乱れる心を 鎮めたまえ
その限りない 青の透明に 鎮めたまえ)
南無浄瑠璃光
大地の薬師如来
われらの病んだ文明社会を 癒したまえ
その深い 青の呼吸の あなたご自身を あらわしたまえ
オン コロコロ センダリマトウギ ソワカ