10年以上古文書の調査を続けている。
といっても、知人である大学の先生に、年に数回三日ほど泊りがけで調査をしてもらうのであるから、遅々たる歩みだ。
しかし、その都度面白い発見がある。
発見といっても、いわゆる文化財クラスの「大発見」というものではないのだが、いろいろと面白い。
この数日、夏の調査が実施された。
今回は、161点の文書が調査された。
長谷寺は、江戸時代以降には火災に遭っていないので、いわゆる近世文書が豊富である。
寺の文書という経典や次第など、今日でいう教科書や参考書のようなものをイメージしがちである。
けれども、実際にその何倍もの量を占めるのは、お寺の暮らしぶりを伝える文書だ。
経済的なものが多い。
田畑からの「年貢」の帳面や、それを換金した証文。
それから、代官所の文書類の「写し」。
大福帳。
今回は、弘化4年に発生した大地震、いわわる善光寺地震の『聞き書き』が記録されたものが出てきた。
善光寺や、その周辺の被災状況ばかりでなく、被害に遭った各地の状況が伝えられている。
おりしも御開帳だった善光寺さんには、全国から巡礼が集まり、そこに大地震が起こったのであるから、被害も甚大。
文書には「潰レ」とか「死亡」とか「夥シ」という字が目立つ。
善光寺さんの大本堂も大きな被害が出て、ご本尊は裏に仮屋を立てて避難して祭られたと書いてある。
いくつかの坊や院を除くすべてが倒壊したり焼失して、仁王門も倒壊し、門前町全体がほとんど無くなってしまったそうだ。
それから文書は、安茂里久保寺村に始まって、今日の篠ノ井南部の被災状況を村ごとに記している。
長谷寺のある塩崎村も被害は甚大で、「死者ソノ数知レズ」と。。。
この大地震で、長谷寺は南北に長く築かれていた立派な石垣がほとんど崩れ落ち、その影響で大きな庫裏や土蔵などがが倒れてしまったようだ。
この地震の数年前に、不慮の事故によって時の住職が亡くなり、新しい住職が跡を継いだばかりであった。
詳細は不明であるが、この新住職に『不始末』が生じ、就任わずかにして「隠居」となり、まもなく亡くなってしまっている。
地震とは別に見つかった文書の中に、この新住職の葬式の様子を伝えるものがあった。
ところが、この葬儀が、どうやら前例にない『遺憾』なものとなったらしい。
文書は淡々とした書付なのだが、どうも、そこには「不始末」をめぐる遺恨のようなものがあって、書き手も歯の奥にものが挟まったような感じだ。
ともあれ、人の一生もそうであるが、寺の日々も山あり谷あり紆余曲折。
その日々の様子を伝える古文書は、地域の様子も伝えてくれる。
これから何年かかるか分からないが、少しずつまとめて、後世に伝え残したい。