同じ宗派(真言宗智山派)の青年僧が上田の前山寺さまに集まって勉強会。
集まったのは、長野の東北信地方の10数名。
勉強したのは、しょうみょう=声明。
本山から阿闍梨さまをお招きし、2日間の集中稽古。
まことに充実の勉強会。
日本の仏教には、いろんな側面があるけれども、それぞれの宗派が長い伝統の中で育んできた文化がある。
仏像や絵画などの宗教芸術が思い浮かぶが、儀式や法要で用いられる様々な仏教音楽も大切だ。
仏教音楽は、声明と言って、仏教の伝来とともに日本に伝えられた。
それが今日の多くの邦楽の源流となったと言われている。
中でも、奈良平安の時代に伝えられた声明は、そののち独自の発展をした。
いろいろな流れに分かれながらも、それぞれに守り伝えられて各宗派に伝えられている。
私たちに伝えられているのは、弘法大師が伝え、その後に高野山や醍醐寺で盛んになったものが江戸時代以降にまとめられたもの。
千年以上の伝承ともなると、歴史的に大変な曲折があって、断絶の危機も幾度となくあったわけだが、その都度それぞれの時代の先人の必死の努力で守られてきたわけです。
天台宗でも、京都の大原に優れた声明が伝えられていますが、幕末から明治の初期にかけての混乱期には、私たちの宗派のある方が、真言声明を守りまた極めようと宗派を越えて大原にも学んだそうです。
と、そんな歴史を知り、その素晴らしさを知るにつけ、自分たち僧侶がそういう文化の伝承者である、ということが理解されてくる。
例えば、私たちの本山である智積院にだけ伝承される声明がある。これは智積院の前身があった紀州根来の根来寺で盛んだったと言われるもので、日本語学者の間では、中世の日本語の言葉づかいを伝承する貴重なものであるという。本山でもこれを「根来の遺音」と呼んで大切にしている。私もそのひとつの特訓をしたことがあるが、このお経を唱える限られた一人になるのかと思うと、身の引き締まる感激があった。と同時に、伝承する人が少なくなっている現状を見るとさみしい気持ちにもなった。
今回は、個人的にはそんな思いを持ちつつの参加。
声明は美しい。
私たちの智山の声明は「清雅」がテーマであると言われているけれど、確かに清らかで雅やかだ。
声明はサンスクリット語のものや漢語のものが中心で、聞いているだけでは何を表しているのかわからない。
でも、その響きは、不可思議なる仏の曼荼羅世界の響きとして、古来の明師や達人たちが、厳しい修行の果てに聞き取ったものであり、その再現だから、意味など知らないままに聞いていても、何とも言えないものがある。
これからも練習は続く。
皆さんも機会があれば、それぞれの宗派に伝えられる様々な声明をお聞きください。