神に触れる
詩人の山尾三省さんの「森の家」という詩の一節にこんな詩があります。
ご自分の子「閑ちゃん」が生まれたばかりのころの詩です。
*
やわらかな
閑ちゃんの体の熱がそのまま膝に伝わり
嬰児(あかちゃん)とは
こんなにも温かなものであったことを
あらためて思う
心の温かさ
無我の温かさ
いのちのままの
あたたかさ
嬰児が神さまといわれるのは
いわれのないことではない
人に
無我の幸せを知らせてくれるものが
神
人に
無心の澄(すみ)を与えてくれるものが
神
いのちのままの
温かさを伝えてくれるものが
そのまま
まごうかたのない神であるのだ
人が神になることは
むつかしいけれども
嬰児がそのまま神様なものだから
膝にのせさえすれば
そのまま人は神様に触れ
神様の頬をやさしくつつき
深淵のような
無言の微笑みに出会うことができる
(詩集『森の家から』所収)
*
昔から、七歳までは神のうち、といい、
あるいは天からの授かりものといって、
私たちは赤ちゃんという存在に、
いのちの不思議を見てまいりました。
みどりごを抱く時に、私たちに湧き上がってくる得も言われぬ感情。
自分でも驚くほどの愛情が湧いてきますが、
はたして、
現代において、
こんなにも私たちに命の不思議や喜び、
愛を呼び覚ます存在が他にあるでしょうか。
現代は不安も多いせいか「宗教の時代」とよく言われます。
でもそれは特定の宗教や教団が盛んに活動することが期待される言葉ではありません。
私たち一人ひとりの内なる宗教心の目覚めや働きが大切になる時代、ということでしょう。
三省さんの詩が歌うように、
赤ちゃんを抱き、
ふれて、
私たちは私たちのうちに眠る愛を目覚めさせましょう。
オギャー、オギャーと。
(明日香 岡本寺 はがき法話に寄稿)