観音@ハツセ考
風に乗った種が飛来し、異国の大地に根づく。
今では珍しくなくなった花が、帰化植物であることを知り意外に思
最初の種が落ちたのはどこだったのか。
あるいは貴人の机の上だったかも知れないし、港の船乗りがそっと
果たして仏教は、いつ日本人にとって温かいものになったのか。
机の上の書物の世界から、あるいは異国趣味の壁飾りから、いつ泥
いつかある時、種は机から転がり落ち、壁から離れて、このジメジ
僕は、ひとつ、おぼろげにその「時」の様子を思うのである。
種は、観音と呼ばれるものであり、大地は、ハツセと呼ばれる土地
机の上では、観音はまだ千変万化を誇る外国の神に過ぎなかった。
壁飾りでは、観音はまだ金色がまぶしいだけの意味不明な異形な人
その種が、ハツセにこぼれ落ちた時、種はそこが自分の居場所であ
そしてあっという間に、その観音という巨木は、ハツセという大地
やがて人は、そこに聳える観音の巨躯に目を奪われて、そのあたか
そこに立っているからこそ、小さな種は巨樹になりえたというのに
ハツセは、泊瀬。そして初瀬。
清らかな谷川の奥へとさかのぼれば、やがて狭まる谷あいのその奥
その瀬において、水の終わりと始まりがひとところに融け合う。
死と生とが、そこにひとつに融けあうと、そう古代人が思うのに時
そしてそのような場所は、再生の地、魂の浄化の聖地となってゆく
終わりと始まりがひとところに交じり合う両義的な場、そこに死も
ハツセを表記するに、思い余った智恵ある人が、その地を俯瞰して
問題は、この瀬に落ちた観音という種であった。
このハツセという聖地が、魂の浄化の場としてはるかな古代から人
そして、この列島に運ばれてきた観音という種は、あちこちに蒔か
それはなぜか。
注目すべきは、多くの伝説が、この土地が「もともと観音の聖地で
種は、実はもともとそこにあったのだが、発芽せず、根も張らなか
僕はこう考えている。
ハツセという聖地において、魂は死に、浄化され、新たな生命をい
清められ、再生する魂。
ハツセにおいて、古代日本人は、淡々と、ただ淡々とそのような場
しかし、ある時、このハツセという場において何が起こっているか
誰かが問題にしたというより、その場の力や、その場で体験される
つまり、人間の魂は、どのような力によって浄化されるのか。
どんな働きによって再生するのか。
再生には、どんな人間性が必要なのか。
あるいは、何が欠落することによって、我々は再生や浄化を必要と