お寺づくりには、基本的な宗教活動を中心に、寺に親しんだもらうためのイベントやら地域貢献活動やら、住職の社会的な活動など、色いろある。
特に最近は、伝統にあぐらをかくことなく、強い危機感を持った若い僧侶の先進的で問題意識に満ちた活動が目を引く。
凄いな、と思い、自分もガンバロー、と思う。
少しだけ、気になることがある。
それは、いろんな活動が、その寺の本尊の本願に適っているのかどうか、ということだ。
思うに、寺院には法要などの年中行事に始まり、月例行事やイベントがあり、住職の社会活動もあるけれど、それらは本尊の本願を地域社会に具体化していく取り組みとしてあったほうがいいのではないだろうか。
阿弥陀さんなら阿弥陀さんの四十八願、薬師さんなら十二本願、地蔵菩薩や観音菩薩もそれぞれに、その尊格の本願、本源というべき、宗教的なテーマがある。
ある寺がある場所にあり、そこにある特定のご本尊がまつられているということは、その本尊の本願=テーマがまつられる固有の『意味』が、その地域にあったし、その土地の人々にはあるのだと思う。
特段の意味もなく、寺など作られるわけがなく、作るにあたって、どれでもいいから適当にまつっとけ、というようなユルイ動機であろうはずがない。
またその『意味』は、特定の人々にとってのみ意義あるのではなくて、地域社会全体が共有しうる一般性もあるのだと思う。
よく寺社縁起というものがあるけれども、やはり、その寺を立てた僧侶なり開基の人々には、なんらかの強くて深い宗教的な動機があって、それが本尊のテーマと共鳴しリンクしたからこそ、その寺が建てられた。
そして、その寺を造り本尊をまつった人々の当初の情熱的で宗教的な動機が、時を超えて我々現代人にも響いてくるだけの意味を持つからこそ、何百年も、または千年以上も続いてきているわけだ。
で、住職というのは、その縁起に伝えられる開山開基の人々の宗教的なテーマを、より意識的に、自覚的に、選択的に継承し、そのテーマをリフレインし、その動機づけを我が動機として本願を地域社会や時代に向けて具体化し、また個人においてはその本願を生き(ようとす)るのが、責務というか定めなのではないだろうか。
でも、寺づくり、開かれた寺院という言葉が独り歩きして、受けの良い、イベント性のある行事や、あるいは社会参加する仏教(エンゲイジド・ブッディズム)でありたいと急ぐあまりに、本尊の本願とはかけ離れた活動に熱中してしまうとしたら、空疎なことになってしまうと思う。
例えば、私は長谷観音という観音さまを本尊とする寺院の住職だから、この寺の寺院の行事というものは、原則として観音菩薩の本願(大悲、愛、同悲同苦)の具体的な展開ということであるべきだと思う。
そのためには、住職である私自身が、観音菩薩とはどういう菩薩様なのか、その本願である慈悲とは何なのか、そのテーマを観音さまはどのように表現しているのか、そしてこの長谷寺という寺は、開基から今日に至るまで、どのようにしてこの観音菩薩の本願を掲げてきたのか、ということの「専門家」でなくてはならないと思う。
ある地域が、千年以上にわたって観音を祭り続け、その寺を伝え続けてきたことの意味を考えなくてはならないと思う。
観音をまつり続けるということは、その本願である慈悲ということを、地域社会の上位の価値として位置づけ続けることである。
人々は、「忘れてはならないこと」として、それを掲げ続けてきたのだ
その事実から、当然、なぜ慈悲というものが我々にとって掲げ続けるべき価値なのかについても、私たちは気づきを得ることができるだろう。
話を寺づくりに戻すと、本願にかなう行事、活動ということを大切にしたい。
今は、どこか、本尊も本願も何処かに置き忘れられている気がする。
自戒を込めて、書きしるておこう。
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