仏心に男女の替りなし~盤珪禅師
形に男女の替りはござれども、
仏心には毛頭、替りはござらぬ。
必ず必ず形に迷わっしゃるな。
盤珪(江戸時代 1622~1693)『盤珪禅師法語 巻下』
意訳:形の上では男女に違いはあるけれど、仏心に関していえば、何の違いもない。決して形にとらわれて迷ってはならない。
*
現代人は、「女性は仏になれない」などと聞けば、誰もが「は?」と答えると思いますが、昔はそうではありませんでした。
お釈迦さまの時代はもとより、近年まで、女性の立場は男性より低く位置づけられていました。
現代でも、テレビで政治家や経済人の会議などが映し出されているのを見ると、ほとんどが男性ですから、女性の社会的な活躍を妨げる働きが今でもあるのでしょう。
皆さんはいかがですか?
少しずつ世の中の価値観も変わり、私たち人間の意識も変わりつつありますが、人間の心というものの弱き一面の中に、「形」にとらわれてしまう傾向があるのは確かだと思います。
盤珪さんは、江戸時代初期に生きた禅僧で、若いころから命がけの禅修行をし、『不生』という境地に開悟して以来、分かり易い言葉で仏法を説き、人々に敬慕された方です。
少年の頃、儒学に志し、「大学」という書物を学んでいた時に、「明徳」という言葉と出会い、この言葉の意味するところを探求しますがなかなか納得することができませんでした。
そこで、儒学の先生に尋ねたところ「そういう難しい問題は禅師に求めなさい」と道を示され座禅の道を志します。
それからは、寝食も忘れる態で、座禅に打ち込み、さらに念仏や断食など、文字通りの苦行三昧の日々を続けて、とうとう結核になり死にかかってしまいます。
その瀕死の中で、ふと「不生の仏心」という開悟が訪れたと伝えられます。
すると不思議と病気も治ってしまったそうです。
不生の仏心とは、どんなものなのでしょう。
禅の道では、盤珪さんの『不生禅』ということで大変に重んじられており、今なおこの教えに導かれて座禅修行をされる方がたくさんいます。
不生の仏心とは、私たち誰もが、生まれながらに(生まれる前から)いただいている仏心であり、誰にも平等にあるものはこれだけだと申します。
それ以外のものはすべて何もかも、生まれた後で、覚えたり、身につけたりするのですね。
生まれ落ちた時に備わっているものはただ一つ、仏心だけ。
ですから、冒頭の言葉のように、男女の形の違いに『迷わっしゃるな』と。男だ女だというのも、生まれてからのことで、生まれる前の不生の仏心には、男も女もない、と。
いろいろな「形」の違いに迷い続けるのが私たちです。
これからも迷いは消えず私たちは悩み続けるでしょう。
でも、盤珪さんの言葉は、迷い疲れた私たちにとって、とても大きな助けになります。
(仏教名言辞典参照)