仏教芸能が現代に伝えるもの
信州には『やしょうま』という食べ物があります。お米の粉から作るお団子で、愛らしい花模様にするのは、花の咲かない寒い季節の涅槃会に、少しでもはなやかなお供えをお釈迦さまに差し上げたいという、雪国の人々の心かも知れません。信州の言い伝えでは、ご入滅のお釈迦さまに、ヤショという弟子がお米の団子を差し上げたところ、お釈迦さまは一口召し上がって「ヤショ、うまかったぞよ」と微笑んで亡くなったから、このお供えを「やしょうま」と呼ぶようになったとか。よほど人々に親しまれたのでしょう、やがて涅槃会のことも「やしょうま」と呼びならわすようになりました。
(画像はJA長野県のウェブサイトより)
この、ほのかに甘いお団子がほしくて、3月15日の月おくれの「やしょうま」には子供たちがみんな寺に集まり、お堂にかけられた大きな涅槃図を見上げたものでした。涅槃図の絵の中では、臨終のお釈迦さまを囲んで、たくさんの弟子や神さま、それから動物や虫たちが悲しんでいます。子供たちはそんな死の光景を見つめながら何を思ったのでしょう。でも、そんなふうに子どもたちが涅槃図を囲んでいたのは、もう昔のことになってしまいました。いつしか「やしょうま」がほしくて寺に集まる子供たちの姿はなくなり、涅槃会の本堂はとても静なものになり、ただ愛らしい花模様の「やしょうま」がお供えされているばかりでした。
私の妻が絵解きを始めたころは、そんなさみしい「やしょうま」でした。涅槃会のお参りというよりは、お供えの「やしょうま」を懐かしんでポツリポツリとやってくるお年寄りにお茶を出しながら、寒い中をせっかく来ていただいたのだからと、お釈迦さまのお話をしました。まだ生まれたばかりの息子を負ぶって、涅槃図に描かれた物語をとつとつと語りはじめたのです。それが長く途絶えていた我が寺の絵解きの復興であり、妻の絵解きの産声でした。
あれから15年がたちました。人づてに縁が広がり、遠くまで絵解きの旅をすることもあります。絵解きは元来が熊野比丘尼のような名もなき女性宗教家たちによって発展してきた民衆のための芸能です。比丘尼たちは旅をして熊野の神仏との結縁を勧めながら、村々の辻や橋の上で絵解きをしました。現代に絵解きをする妻も、本堂ばかりでなく、公民館やホールなどいろんな場所で、いろんな人々の集まりで絵解きをします。ある時はお寺の法要で、ある時は公民館の文化企画で、ある時は敬老会で、ある時は幼稚園で、ある時は女性たちの集いで、またある時は大切な人を亡くした人たちの集いで絵解きをします。
そこに集まってくる人たちは、みんないろいろな人生を歩んでいて、性別もお仕事も家庭の事情も大切にしていることも十人十色です。それぞれに喜びや悲しみを抱えています。でも、そんな人たちが、涅槃図の前に肩を寄せ合うように腰を下ろしてお釈迦さまの物語に耳を傾けています。沙羅の樹の間に横たわり、今まさに臨終を迎えているお釈迦さまが、何を語るのかと耳を澄ますのです。
絵解きは、「語り」によって聞き手を物語の世界へといざないます。聞き手は、語りをたよりに、それぞれの心のうちにその世界を思い描いてゆきます。語りの芸と聞き手の想像力とが共に携えあって、遠く2,500年前の沙羅の林へとゆっくりと進んでいくのです。
「梢を風が渡ってゆき、かすかな音をたてて沙羅の木の葉を揺らします」
そんな絵解きの語りを聴きながら、私たちの目は沙羅の樹の梢を想い見て、その吹く風を肌に感じ、かすかな葉音を想い聴くのです。それらのイメージは聞き手の知識や体験の深層を大地として生えてくる沙羅の樹々であり、いつかどこかで肌に触れた柔らかな風の記憶であり、別れの悲しみのあの日に聞いた葉の揺れる音から想起されてくるのでしょう。それらはみなその人その人の人生の物語が描き出すそれぞれの沙羅の林です。それは客観的な事実として「正しい沙羅の樹」ではないかもしれません。でも、そうやって思い描かれていく世界は、その人その人の人生の物語と地続きになり、そうなるともはや妻の語る言葉は妻のものではなく、お釈迦さまの言葉となって聞き手の人生に語りかけてくるでしょう。絵解きを始めとする仏教芸能とは、その語りの芸をもって、お釈迦さまの物語と私たちの人生の物語をつなぐものなのです。
絵解きの中にチュンダという鍛冶屋が登場します。彼はお釈迦さまに「最後の食事」を供養したものとして永遠に語られる人間ですが、その食事がもとでお釈迦さまが死の床に就いてしまったために、彼の自責の念、悔恨の情もまた、永遠に人々の胸に迫るものとなりました。チュンダは「ああ、私のせいで大切な大切なお釈迦さまが…」と取り乱し泣き崩れます。そんな憔悴しきったチュンダに向けて、お釈迦さまは語りかけます。
「チュンダ、私が死んでいくのはお前のせいではない。私が死んでいくのは、私がこの世に生まれたからである」
絵解きがこの場面に差し掛かると、誰かがすすり泣く声が聞こえます。私たちは、深浅の差こそあれ、大切な人との死別に自責の念や悔恨の情を抱くものです。チュンダが「ああ、私のせいで…」と取り乱し泣き崩れるように、この今も先だった人の死に、人生をとらえられている人があります。心のない人に責められ、もう自分は幸福になってはいけないのだと、笑うことさえ自分に禁じている人もあります。そんな自責と悔恨に立ち尽くしている無数のチュンダ。お釈迦さまはこの時、チュンダその人に向けて語りかけつつ、私たち人間の自責と悔恨という深い悲しみそのものに向けて語りかけているかのようです。
チュンダだけではありません。妻が、涅槃図の絵解きの中で取り上げるのは、お釈迦さまの別れを受け入れられずに悲嘆にくれる弟子のアーナンダ、我が子を亡くして半狂乱となっている女性のキサーゴータミー、殺した人の指を首飾りにしている殺人者のアングリマーラ。アーナンダはお釈迦さまに憧れ悟りを目指しながらも、意志の弱さのために迷い続ける誠に情けない弟子。キサーゴータミーは我が子への愛の深さから、すでに死んだ遺体を手放せない母。アングリマーラは己の罪悪の報いである辱めに耐えようとする男。いずれも、その弱さ、傷、悲しみの深さにおいて、現代を生きる私たち自身が抱える弱さや悲しみと深く共鳴する人々です。だからこそ、彼らに向けて語りかけるお釈迦さまの言葉ひとつひとつが、私たちの内なるチュンダ、キサーゴータミー、アングリマーラに届いてくるのでしょう。絵解きは、遥か2,500年前のお釈迦さまの言葉を、今を生きる私たちの心に届けるものなのです。
思えば、「ヤショ、うまかったぞよ」という言い伝えを信じて「やしょうま」に集まっていた人々の時代から、私たちは遠いところまで来てしまいました。もうそこには帰れないでしょう。でも、妻はその遠いところまで、お釈迦さまの言葉を届けにこれからも旅を続けていくでしょう。絵解きはそんな遠いところに生きている人の心と、お釈迦さまの心とをつなぐものなのですから。
間もなく「やしょうま」の季節。凍てついていた信州にもかすかな春の兆しを感じます。涅槃図の絵解きに耳を澄ませてみませんか。思い描いてみませんか、沙羅双樹の花の色を。ほらお釈迦さまの声が聞こえてまいります。
「皆よ、全ての物事はうつりゆく。怠らず、怠らず、努力してゆくのだよ」。
本稿は大阪應典院の機関紙「サリュvol.8 2014 Sprig」に寄稿したものを一部加筆したものです。