住職日記

たましいのめぐりあい

 


お盆が近づくと「たましい」について思うことがありますね。


 


仏師の友人がいます。


新しい仏像を造るより、むしろ修復をもっぱらとしているのですが、彼がこんな話しをしてくれました。



「仏師というのは、自分で造り上げた仏像を何百年後かに生まれ変わって、また仏師になって自分で修復するんです」



彼は千年も前に造られてすっかり傷んだ仏像の前にたたずんで、長い年月を経てきたお像の指先や衣紋、背中の曲線をひとつひとつじっと眺めながら、そう言うのです。


茶目っ気のある彼のことだから、そんな言葉を真に受けてはいけないぞとその表情を見てみれば、お像のお顔に向ける眼差しは、遥かに傷みも風化もない頃の姿を懐かしんでいるかのように思われ、そばにいる私もその「千年の邂逅」に立ち会って厳粛な思いに打たれるのでした。



弘法大師空海の師である恵果阿闍梨は、真言密教の全てを弟子である空海に授け終えてこう言われます。


「お前と私は、遠い遠い過去から、お互いに師となり弟子となってこの尊い仏法を伝えてきた。この度は私が伝えたが、次は私が弟子となって法を授かろう」と。


この言葉を受けた弘法大師は、後に懐かしい師を偲び、悟りを得ることよりも、この法と遭えたこと、その法を伝える師とめぐり合えた深い喜びを語っています。



人身は受け難く、仏法は遭い難し。


仏師は、目の前の仏像との縁を、魂の縁として深く受け止め、師と弟子は、そのめぐり合いの不思議を、永い永い魂の絆、法の契りとして受け止めていく。



仏師でもなく、空海でもない私たちですが、同じく命を授かってかけがえのない人生を生きているのですから、この世の旅路を、この一瞬一瞬を少しでも有意義にしたいものです。


ならば仏師や弘法大師の思いをヒントに、魂の縁に思いをはせてみてはいかがでしょう。


目の前の何気ない風景が、ただ漫然と流れていくのをやめて、何事かを語りかけてくるように感じられ、家族や友人と過ごす何気ないひと時がいとおしく感じられてくるのではないでしょうか。


奈良 明日香 岡本寺 ハガキ説法に寄稿


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