秘密の教え
「それはわしが教えておるものが、まだ、そなたにわからないだけのことよ」。
この言葉はファンタジーの傑作『ゲド戦記』の中で、偉大な魔法使いの先生が、駆け出しの、でも非常に才能のある弟子の若者ゲドに語ったものです。
ケドは偉い先生の弟子となれば、すぐにいろんな魔法が習えると楽しみにしていたわけですが、先生は山歩きをしたり自然を眺めたりしているばかりで何も教えてはくれません。
たまりかねてゲドは「早く教えてほしい」と教えを求めるのですが、先生は「もう教えは始まっている」と答えて、先の言葉を語るのです。
私は、この言葉と出会ったとき、私たちが学ぶ弘法大師の教えすなわち真言密教の「密」を思わずにはいられませんでした。
お大師さまが示されている世界、仏の世界は、極めて深遠で、それを感得するのは困難を極めるため、時にそれは「秘密の教え」とされます。
でも、きっとそれは隠されたものであるとか秘められたものというのではなく、ゲドの先生の言葉を借りれば、「私にはまだ分からないだけのこと」なのではないでしょうか。
思えば、そういう「分からないだけのこと」というものに人生は満ちていますね。
例えば「ご縁」というものの味わい。
若い人は、あまり「ご縁に感謝です」などと言いません。
でも、若いからご縁が乏しいとか何も縁がないというわけではないですよね。
家族や友人や地域や社会、さまざまな情報を始めとする文化等、一人の若者が結ぶ縁の広がりや働きは、大人と変わらず重々にして多彩です。
でも、若者は「ご縁て素晴らしい」なんてあまり言いません。
やはり、それは「分からない」のですね。
見えない、感じない、その意義に目が向かないわけですね。
縁はまざまざとそこに彼を彼たらしめながら生きて広がっているのに、彼の目にはそれは秘められている。
秘密、なのです。
そして、そのようにして「まだ分からないだけ」のことは、本当にたくさんあるに違いありません。
何歳になろうとも、今日、今、初めて分かる世界があるに違いありません。
私たちはいつも、秘密の扉の前に立っているのでしょう。
明日香 岡本寺 寄稿