観音は近づきやすし除夜詣 虚子
この句は、昭和10年の大晦日に浅草の観音さま(浅草寺)にお参りした高浜虚子が詠んだものです。
いよいよ年の瀬を迎えて、除夜詣(二年参り)に訪れる人たちが集まってくる。浅草寺の賑わいが思われ、その賑わいの向く先は、江戸時代から庶民に親しまれてきた観音さま。
俳人虚子も、そんな賑やかな参詣人たちの一人になって参道を歩いていて、除夜詣に向かう人々を眺めれば、安心しきって観音さまへの参道の流れに身を任せている。どこの、何者に向かってお参りに行くのか、お参りをする心構えやら難しい理屈など何も心配することなく、夜店の明かりや、今夜ばかりは夜更かしを許される子どもたちの歓声が境内にこだまし、こんなにも安心してお参りをできることを、ふと不思議に感じる。
除夜と言えば、「闇を除く」すなわち、仏の教えや修行によって煩悩の闇や汚れをはらうことであり、新年を迎える習慣と仏の教えとが溶け合った日本の素晴らしい暮らしの文化ですね。でも、そんなことも何も考える必要とてなく安心してお参りできる。
そんなおおらかなお参りのなんと安らかなことでしょう。
観音さまは、あらゆる方向に向けて救いの門を開いておられ、普く人々、あまねく方向に開かれた門ということで「普門(ふもん)」の教えの菩薩と称されます。菩薩とは、仏教が掲げる人間の理想の姿ですが、それは自らの利益と、他者への利益とが一致する人、自利利他の生き方を目指す人の呼び名ですね。ですから、観音さまは、普く人々の癒しや救いを我が喜びとし、その喜びを我が修行としておられる方といえましょう。しかも、あまねき命をもらさず救いとらんという願いは、それ自体が果てしない、終わりなき大大大事業です。それゆえ、私たちの至らなさやダメダメさ、観音さまのことさえ知らない信心のなさも問わずに、その広大無辺の門を果てしなく、永遠に開いているのでしょう。
そんな広い広い心が、いつしか私たちを包み込んで、親しみやすい、近づきやすい存在として、浅草の観音さまのように私たち庶民を心が自然と向かうのでしょう。
いよいよ、年の瀬大晦日。
長谷観音のご本尊さまも、広い広い海のような、高い高い山のような、それらを全て包み込む空のようなお心で、皆さまをいつも、そしてずっと待っておられ、いつも、そしてずっとそばにおられます。
今年は、どんな一年でしたか?
辛いことも、悲しいこともあったでしょう。
楽しいことも、喜ばしいこともあったでしょう。
出会いがあれば、別れもあったでしょう。
得るものがあれば、失ったものもあったでしょう。
どんな日々も、私だけの、大切な一日一日として、いよいよ大晦日。
観音さまに除夜詣でして、一緒に善き年をお迎えしましょう。
今年もお世話になりました。
皆さま、本当にありがとうございました。
南無大慈大悲観世音菩薩