住職日記

「で」の人

「で」の人

 

以前、本山の僧堂で指導をしていた時、T君という修行僧がいました。

彼は寺院後継者ではなく、30歳を過ぎて発心し、仕事を辞めて道場にやってまいりました。

彼はひと言でいうと不器用でした。


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お経も、人と話すのも、何をやっても不器用で、その様子は何でもスマートにこなす今時の若い修行僧たちの失笑を買うのでした。


修行僧たちの大半は寺の子です。

「今時の」とは言え、まったくの初心者ではなく、修行も学門もスムースです。

これに対してT君はぎこちなく、スムースには程遠いのでした。


ある時、そんな彼を心配し僧房を訪ねました。

修行僧の小さな個室です。

私は「修行は辛くないか」と率直に尋ねました。

すると彼は不思議そうな顔をして「毎日充実しています」とドモリながら応えました。

その顔は「人生でこんなに楽しい日々はない」という輝きなのでした.

私は驚き、そして気づかされました。

彼は少しも困ってないし、苦しんでいないのです。

仏道生活、その教えに従って暮らすことが楽しくて嬉しくて仕方がないと言うのです。

見れば、彼の部屋は清らかに整頓されていました。

自ら写仏した本尊をおまつりし、水と花を供え、何巻もの写経が供えられていました。

壁には釈尊や弘法大師の言葉が掲げられ、部屋は仏さまで満ちていました。


寺の跡取りである若者の多くは、本山での修行を資格取得のためととらえていて、仏教の学門もその延長で考えています。

彼らにとって仏教は、いわば職業上必要な知識なのです。

しかしT君は違いました。

多くの僧侶が資格取得のために仏教「を」学ぶのですが、T君は仏教「で」自分自身を、人生を学び、生きているのでした。

彼は卒業までずっと不器用でしたが、いつの間にか彼を笑うものはなくなりました。


あれから時が流れ、多くの仲間が寺を継いでいる今、彼は社会に戻り働いています。

不器用さは相変わらずでしょう。

でも、きっとT君は今も仏教「で」人生を歩んでいるに違いありません。

「を」ではなく「で」の人。


僧堂での不器用なT君の姿を思い出すと、懐かしさとともに、大事なことが蘇ってまいります。

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