今朝は、朝ドラの「エール」を見ていたらこんな言葉が。
『悪を離れて善を行い、平和を求めて、これを追い求めよ』
戦時下に、人々を励ます歌を作り続ける主人公に、クリスチャンとなったかつての作曲の弟子から贈られた聖書。
たまたま開くと、この言葉が目にとまります。
自分の歌が人々に喜ばれる一方で、悪化する戦況と、その悲惨な戦地に向けて、自分の歌を胸に旅立つ若者たちと見送る家族。そんな姿に、揺れる主人公の心。。。
なるほど、とネットで探してみると、聖書の言葉を紹介する多くのページの中に、こちらが目に留まった。
『悪を離れ善を修むるには必ず三宝を以て本と為す』
(聖徳太子『維摩経義疏』)
平和を求めるとき、私たちは「自分にとっての平和」を追い求めて、相手を忘れているというか、自分たちの平和観に相手を従わせようとする平和運動をしやすい。
聖徳太子が、平和を求めるには「必ず三宝を以て本と為す」と言い添えているのは、誠に周到というか慧眼で、人間のありようへの、太子の深い洞察を表すとともに、太子の凄さというよりも、それが仏法というものの智慧の働きなのでしょう。
きっと聖徳太子は、「私はこう思う」という「私見」を述べているのではなくて、仏道はこうである、と述べているのでしょうね。いきなり平和を目指すのではなく、三宝を敬う仏道の実践が、平和を導くとお考えだったのかもしれません。
ちなみに、今の我々お坊さんは、「私はこう思う」という「仏教の私見」になってしまっているところが、説得力というか、迫力のなさなのかもしれないな、と反省。
世界の平和を願う時も、私たちは、まずは自分の心の平和を大切に願うとともに、それが「自分=自我だけの平和」でなく、聖徳太子が仏の言葉として仰せのように、三宝(ブッダ、ダルマ、サンガ)と尊ぶこととを見失わないことが大切ではないでしょうか。
詩人の故・山尾三省さんは、仏法僧の三宝について、現代の私たちにこう語りました。
『自我ではなく自覚(ブッディ)、流行ではなく法(ダルマ)、群衆ではなく共同性(サンガ)』
じっくり味わいたい言葉ですね。
朝ドラの今後の展開も気になります。
そちらもじっくり味わいたいですね。