秋の日暮れは釣瓶落とし。
秋の日暮れは釣瓶落とし。
もう井戸を使わなくなった私たちには、なかなか実感の湧きにくい喩えですが、たしかに少し前の夏の気分で夕方の道を歩いていたら急に暗くなりますね。
その様は、井戸の釣瓶があっという間に落ちていくかのよう。
半世紀ほど前なら、暮らしの実感があったのでしょう。そんな暗さの中に昔の人は何を感じていたでしょうね。
さて「暗さ」というのは、あまり好まれない面もありますが、光と影、陽と陰、私たちの心や世界には、暗さの中に(こそ)息づくものもあります。
日本家屋は、ひさしが長く取られて、光が奥まで差し込まない作りになっていますが、そのために建物の中には、一日のうちに様々な陰影が移ろいます。
いつも明るいのは、それはそれで良いわけですが、朝には光が膨らんで午後には次第に陰り、やがて闇が広がっていく時の経過と、自分たちの体リズムが一緒に歩んでいることには、体内時計なのか、自律神経なのか分かりませんが、とても自然な流れになるように思います。
むしろそういう光と影に織りなされる暮らしの景色から、祖先は何かを学び取っていたように思います。
闇というのは、慣れないうちは不安を膨らませますが、人間の目というのはなかなかのもので、慣れてくると僅かな光で暗がりにあるものをとらえます。
お寺のお堂などは、むしろ暗く作ってあるわけですが、蝋燭の小さな光だけでも、しばらくお祈りしているうちに堂内の姿が見え始め、一番暗がりに祀られている仏様がじわじわと姿を現してきます。
じわじわ現れてくる姿というものは、煌々とライトで照らされるより、はるかに存在感を持ち、真実の姿で迫ってまいります。
そんなふうに、だんだんと見えてくる、じわじわと現れてくるような世界との付き合い方、味わい方、知り方、出会い方、というのもとても大切に思います。
星の王子様が言うように、目には見えない大切なものと出会うのは、そんな出会い方なのではないでしょうか。
釣瓶落としの夕闇迫る秋の徒然に、そんなふうにして、暗がりの奥に見えてくるものを探してみてはいかがでしょうか。