昔々、ある青年がある時、老病死という苦が人生の大問題である、と「気づき」ます。
この衝撃的な気づきによって、彼はその苦の究極的な克服、つまり「悟りたい」「輪廻から解脱したい!」と決心するに至るわけです。
この青年は、この「気づき」に強く動機づけられ、後に「お釈迦様」になるのです。
私は、お釈迦様の悟りの世界を尊ぶものですが、それと同じくあるいはそれ以上に、ひとりの若者を覚者にまで至らせる原動力となった「気づき」を大切にしたいと思います。
この気づきについて「四門出遊」という有名なエピソードが伝えられています。
それは何不自由なく育った王子(後のお釈迦様)が、たまたま親である王の眼をぬすんでこっそりと城の外へ出るお話です。
初めに東門から出ると腰の曲がった皺だらけの人がいて、王子は侍者に「あれは何か?」と問いますと、「老人です」との答え。自分もやがて老人になると告げられてショックを受ける王子。
次に南門から出ると病人が、西門から出ると死者がいて、同様に「初めて見た」王子はショックを受け、最後に北門から出ると真理を求める出家者と出会います。
この話は、老病死の問題が、知識としてではなく、初めて人生の重大事として意味を持った何らかの体験を表していると思います。
人が老いて死ぬことをいくら王子とはいえ知らないはずはありません。
けれども、真に自分の人生にとって意味を持つことは別の問題ですね。
間もなく12月8日、お釈迦様の成道会を迎えます。
お釈迦様のお悟りを尊ぶとともに、老病死という人生の実相に気づいた若き日のお釈迦様の心にも思いをはせ、私たちの老病死を見つめる日にもしましょう。
(奈良・明日香 岡本寺ハガキ法話寄稿文より)