今日12月8日は、お釈迦さまがお悟りを開いた日(成道会)です。
そこでお釈迦さまのお誕生、出家修行、降魔成道、布教伝道、そして涅槃へと至る、
お釈迦さまの八十年の大いなるご生涯、その主な出来事をお伝えします。
お釈迦さまのご生涯
お誕生
お釈迦さまは、昔々、今から2500年以上の前のこと、インドの北部、ヒマラヤ山脈のふもと、ネパールのあたりにあった「釈迦国」の王子として生まれました。
王子としての名を「シッダールタ」と言い、その意味は「すべてを叶えるもの」でありました。
誕生の時、ルンビニーの花園で、にわかに産気づいた母マーヤーさまの右脇より生まれ、直ちに七歩歩いて、右手で天を、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱えられたと伝えられます。
その時、天からは神々が人々を救う聖者の誕生を祝って甘露を注いだと言われ、これが今日のお釈迦さまの誕生を祝う「花まつり」のはじまりとなりました。
花まつりで花御堂にまつられる小さな誕生仏に甘茶を注ぐのは、甘露を注いだ天の神々のお話にちなみ、感謝の思いを捧げるものです。
「七歩」歩いたのは、前世まで一切のなすべき修行をなし終えてきた方が、この世で六道輪廻の苦しみから出る(解脱する)ことを宣言したものと伝えられます。
出家修行
シッダールタ王子は、なに不自由なく育てられましたが、王子を生んでわずか七日で亡くなった生母マーヤーさまのことを思って、幼い頃から生と死について深く思い悩む少年であったと伝えられます。
やがて青年となり、文武に優れた王子は美しい妃をめとり、子をもうけます。
しかし生と死の真実をきわめ、輪廻の苦しみから解脱したいとの強い願いを失わず、二十九歳の時に、ついに王子としての位も富もなげうって出家し、髪をそり、ボロをまとって一人の苦行者となります。
それから六年の間、あらゆる苦行をし、肉体は痩せ細りその姿は骸骨のようになったと伝えられます。
またシッダールタは、各地の偉大な師を尋ねては瞑想を深めてまいりましたが、どの師の教えにも求める答えはなく、命を削る苦行も解脱への道ではないのでした。
やがて苦行者たちのもとを去り、ひとり瞑想を始めたのです。
降魔成道
苦行を離れ瞑想を始めたシッダールタを『堕落した』と非難するものもありましたが、シッダールタは心身を調えて菩提樹の根本で全てを成就する深い禅定に入ります。
そして人間の苦しみについて、生と死について、その源へと瞑想による智慧の考察を深めてまいります。
ところが、そんなシッダールタの前に、悪魔マーラーが現れて、快楽や怒りや恐怖をもって邪魔をしてまいりました。
生と死の輪廻を繰り返す苦しみからの解脱への道に、シッダールタが目覚めるのを妨げるためでした。
しかし、シッダールタは、快楽の誘惑も、怒りも恐怖もしりぞけてマーラーを降し、生と死の苦しみを生み出す真実を明らかにし、その苦しみを超え、輪廻から解脱する縁起の理法に目覚め、お悟りを得たのです。
十二月八日、明けの明星が輝く夜明け、シッダールタは『ブッダ=目覚めた人』となりました。
伝道、そして涅槃
三十五歳で悟りを開きブッダとなったお釈迦さまは、目覚めの智慧を人々に説き始めます。
以来、四十五年間、伝道の旅は続きます。
次第に、その解脱への道を求めて多くの人が弟子となり、多くの人が帰依し、多くの人が励まされ、救われました。
やがて、八十歳になったお釈迦さまは、弟子のアーナンダを伴って最後の旅を歩み、途中病となりましたが旅を続け、クシナガラにいたった時、沙羅の林でついに杖を置き、横になりました。
偉大な生涯の最後を迎えたのです。
苦しい息で、弟子たちに法を説き終え、皆に別れを告げると深い瞑想に入られ、そのまま完全なる安らぎである涅槃に入られました。
二月十五日、満月の夜でありました。
その教えは、弟子たちによって守り伝えられ、やがて国を越え、時を超えて、日本に伝わっているのです。
人身受け難し
さて、お釈迦さまには多くの人々が帰依し、その教えを灯に生きました。
お釈迦さまは、道を求め、弟子となりたいと願う人、または出家まではしなくても、在家にありながらお釈迦さまの教えを大切に生きたいと願う人に、常々語りかけたことがあります。
それは「人身受け難し今すでに受く」という言葉でした。
生まれ変わり死に変わりする中で、人としての命を受けるということは、極めて難しいことである。
まずそのことに目を向け、心を向けなさい、と。
しかし、あなたは今、人としての命を受けている。
そのことに目を見開き、驚きなさい、と。
お釈迦さまの弟子となるためには、仏法僧の「三宝」に帰依します。
それが仏弟子としてのスタートです。
ですが、この三宝に帰依をする前に、お釈迦かさまが、「人身受け難し」ということについての、深い気づきを促していることに、私たちはあらためて思いを向けたいと思います。
この「人身受け難し今すでに受く」という言葉は、いのちの不思議についての気づき、と言い換えても良いのではないでしょうか。
私たちは、何気なく、当たり前のように日々を過ごし、生きて在ることはもとより、親から命を享けたことや、この命が様々な縁によって支えられていることに、かなり無頓着です。
しかし、人は人生のある時、なにがしかの出来事や体験を通じて、この「いのちの不思議」に打たれることがあります。
身近なものとしては、親や伴侶の死という出来事です。
こうした愛する人との別れの体験は、私たちの心を、いのちに対する無頓着から解き、いのちへの眼差しを開きます。
その時、始めて、聞こえてくる言葉や、見えてくる世界があります。
お釈迦さまの言葉は、まさにそのような命の不思議に深く気づいた心にこそ、語りかけられているものです。
逆に言えば、どんなにありがたい言葉も、そのような心なくしては、意味がないとさえ言えましょう。
三宝に帰依するに先立って、人身受け難し、という言葉を語りかけるお釈迦さま。
このことの意義を、あらためて噛みしめてまいりましょう。
住職 記