台所の祈り
京都で暮らしていた時、ある書店で次の言葉と出会いました。
クリスチャンの間ではよく知られる言葉だそうです。
主よ、私の小さな台所を祝福してください。
お料理をするときも、お皿を洗っているときも、私の心を喜びで満たし続けて下さい。
あなたの祝福を私の家族みなでいただくことができますように。
台所の祈り 藤井康男著 一粒社
私はこの短い言葉にとても好きです。
思い出すと温かな情景が浮かんできます。
女性(男性でもよいのです)が小さな台所に立ち、丁寧にお料理をし、家族のための食卓を用意している。
鍋から湯気が立ち上り、彼女(彼)が立ち働く音が聞こえ、窓から差し込む光は優しく台所を満たしている。
そんな情景です。
読み人知らずの言葉のようですが、暮らしをいとおしむ思いを感じます。
善く生きていきたいという願いを感じます。
台所での営みは、外での仕事や世の中の出来事や政治のことなど、そういういわば「大きなこと」と比べたら、少しも特別ではなく、平凡で小さなことと言えるでしょう。
でも誰にとっても、日々の暮らしに欠かせないものです。
暮らしにか欠かせないものは、それがどんなに小さなものであっても、私たちの人生を形作るものです。
それはやがて心を育み、魂を養っていくものです。
仏教も「茶飯事」を重視し、日々の平凡な行いを尊んで仏心を育んでいこうとします。
茶飯事の「事」は、「こと」ではなく「つかえる」と読むと、茶飯を尊んでお仕えする、奉仕することになります。
仏教は日常の小さな行為の影響力を強く認識し、それを畏れるべきものと考えるのです。
もし逆に神仏ではなく、悪魔によって私の台所や料理や皿洗いが、怒りや憎悪で呪われたら、それが食卓から家族へと、そして私の全人生へと波及していくのです。
小さな行いの積み重ねが、そのように人生を左右するものであると気づいていくとき、私たちはその困難さも知るでしょう。
だからこそ、神さま仏さまに祈るのです。
お皿一枚を洗う時、どうか「やっつけ仕事」にならないように、愛をこめて行えますように。
それを拭くとき、あるいは洗濯物を干したり、畳んだりするとき、一枚一枚、丁寧に喜びに満たされて行えますように。
そのような心持で生きていくことができますように。
祈りは寺や教会の中に限られるものではなく、私たちの台所の料理や皿洗いという暮らしの中にこそ、祈りが息づきますように。
(明日香 岡本寺 はがき法話への寄稿)